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  現代新書カフェ
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□            
□        講談社 現代新書カフェ〜095〜
□            2011年7月8日
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  ‖         〜〜 メニュー 〜〜 
  ‖《1》『原発社会からの離脱』関連イベント情報
  ‖《2》今月の刊行予定
  ‖《3》◆連載企画◆ 
  ‖   (1)「まったく新しい物語のために」 
  ‖     第2回 暴力を封じられた時代に
  ‖                      赤坂真理
  ‖   (2)「貨幣と市場――ケインズとハイエクが追求した不安」
  ‖     第12回 何のための自由か
  ‖       ――『自由の条件』『自由放任の終焉』をめぐって
  ‖                      松原隆一郎
  ‖    (3)「本気で考える池田屋事件」最終回
  ‖                      中村武生
  ‖《4》電子書籍キャンペーンのお知らせ
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 現代新書カフェにようこそ。
 
 当カフェがはじまったのが2007年春。開店時から続いてきた最長寿連載「本
気で考える池田屋事件」が、今回最終回を迎えます。連載回数はじつに46回、
中村さん、ありがとうございました。幕末政治史における池田屋事件を捉えな
おす本格的論考、最終回もお楽しみください。


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◆《1》『原発社会からの離脱』関連イベント情報◆ 
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【宮台真司×飯田哲也両氏が、ネット生放送に出演】
 6月に刊行され、早くも4刷に達した『原発社会からの離脱』の著者ふたりが、
ニコニコ生放送に登場します。
 原発と自然エネルギーをめぐる新しい動きについて語っていただく予定です。

 7月12日(火曜) 22:30〜24:00 
 ニコ生トークセッション「原発社会からの離脱」
  http://live.nicovideo.jp/gate/lv55872156 
※はじめてニコニコ動画をご利用になる方は、アカウント登録が必要です。 

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《2》今月の刊行予定 
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 現代新書7月刊行予定5点のラインナップをお伝えします。詳しい内容の紹
介、定価などは7月15日号をご覧ください。

 ◇想田和弘著『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』 
 ◇堀井憲一郎著『いつだって大変な時代』 
 ◇中野剛志著『国力とは何か――経済ナショナリズムの理論と政策』 
 ◇杉山登志郎著『発達障害のいま』 
 ◇畑村洋太郎著『未曾有と想定外――東日本大震災に学ぶ』 


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◆《3》連載企画◆ 
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□ 1)「まったく新しい物語のために」赤坂真理             ■
□   第2回 暴力を封じられた時代に                 ■
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 人が電気で死ぬところを見たことがある。
 すごい音がするのだ。晴れた空を引き裂き、その圧で聴く者の体内をも打つ
ような。
 その割に匂いは覚えていない。本当になかったのかも知れない。
 死ぬところを見た、というよりは、一瞬で死んだ人の死体を見た、という方
が正しいかも知れない。彼は、私が見るまで生きていて、見たときには死体だ
った。何も変わって見えないのに、生命がそこから失せていることだけが、わ
かった。
 一瞬で、不思議なほどに清潔な死だった。
 それは高圧送電線の作業員の事故だった。
 夏休み。私はたしか小学校低学年だ。朝顔に水をやっていた。夏の宿題の定
番、観察日記をつけるのだ。
 朝顔に水をやっていると、庭にいた私の頭上で、身もすくむ衝撃音がした。
なのに、見上げても別段変わったことはない。空は夏に特有のもやった青で、
家の塀際にひまわりの黄が揺れていた。その上に、人がいた。

 人が、揺れていた。

 やがて観衆が集まりだした。近所の人がちらほらと戸外に出、空を見上げ、
指差し、やがて消防車が来、救急車が来、派手なサイレンの音は遠くからの野
次馬をも呼んだ。都内の中央線沿線の町は、幹線道路以外の道では車の対面通
行がむずかしいくらいだ。そんな道に何台もの大きな緊急車両が進入するのは
大変だった。緊急車両は人垣を抜けるのだけでも往生した。その間も、死体は
ずっとぶら下がって揺れていた。私は家の塀の中から、ずっとそれを見上げて
いた。疲れると庭に座った。蒸れた夏草の匂いがして蝶々が飛んでいる。南へ
向かって高くなるつくりの庭。その先に、小さな十字路を隔てた対角線上に鉄
塔がそびえていた。陽射しは肌に痛いくらいだ。ゆるい風が吹くと電線もたわ
んで揺れた。鉄塔の上の人に助けの手はなかなか及ばず、隠れることもできな
い死体だけが宙に浮いていた。私はそれをいわば特等席で見ていたようなもの
だった。けれど、見ても見ても別に面白くなかった。母を呼ぼうかと家に一度
入った。私の家は古いつくりで、勝手戸を入ったところには狭い土間のような
空間があり、そのひんやりとした暗がりに、太陽がいくつもの、色とりどりの
光の球の残像を焼き付けた。目が利かない。誰もいなくてしかたなく、私は一
人で再び外に出る。陽光に射られ、一瞬体が崩れそうになる。小さな手をかざ
す。
 梯子車がついに鉄塔へとアームを伸ばし、ゴンドラに乗った救助員がそこに
あった男の体を外した。体はただそこにずっとあり、ただの、体だった。命は
すでにそこに宿っていなかったから。その人の人格、生活、記憶、いとしい人
とのかかわり、そういったものを失って未だその人の外形をはっきりとどめて
いる体は、搬出されるモノのようだった。
 高圧鉄塔の作業員の事故。
 それは自動車事故ほども人体や器物を破損せず、火事ほどの恐怖も私に与え
ず、熱風も火の粉ももたらさなかった。ただ、密閉されたように淡々とした風
景の中で何かおそろしく非日常的なことが起こり、進み、処理された。そうい
う意味で私の中では、連合赤軍のあさま山荘事件のテレビ映像と似た記憶にな
った。もっと言えば、日本中をテレビの前に釘付けにしたという「あさま山荘」
の武装籠城ゲリラと警察の攻突入劇の実況中継を見たとき私は、「今日のテレ
ビつまんないなあ」と思ったのだった。どの局を見ても同じに見えたし、動き
がないし。どの局も同じ映像を流すなど、大晦日から元日にかけて除夜の鐘の
映像を流す『ゆく年くる年』くらいではないか。
 あの夏の日の太陽の下にあったのはむごたらしい光景ではなかった。私の心
に衝撃を与えたわけでなく、その後一度たりとも悪夢に見たわけでもない。な
のに小さい頃のできごととして、何かの象徴のように思い出す光景はそれだ。
それはとても即物的なのに、暗号のように保存されている。その象徴言語を私
は読めない。ただ記憶の古層に、決して土に還らないプラスティックにも似て、
朽ちない異物であるだけなのだ。
 異物はただ心に引っかかり、今も揺れている。ぶら下がって風に揺れたまま。

 私の生まれ育った家は二方向を川に挟まれていた。家の上と下に、川が流れ
ていた。
 上を、電気という火の川が流れていた。
 下を、コンクリートやアスファルトで蓋をされた水の川が流れていた。
 戦前や戦中に「郊外」と呼ばれた中央線の中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪と
いった町。それらの町はおそらく、町の近代インフラが完備する前に人口が流
入しすぎたのだろう。すでに過密だった下町の人たちが、こうした郊外を目指
し、どこか、生まれ育った町々と似た肌触りのフラットでごちゃっとした住宅
地をつくった。かくいう私の祖父母と父も、そのようにして浅草から移り住み、
結果的に下町大空襲を逃れた家族のひとつである。きっとそういうスピードが
都市インフラ整備より速かったのだ。そういった町では電気の高圧線は、首都
高速さながらに、出来上がった町の上を縫っていくことになった。そこで少し
だけ上を見るなら、高圧鉄塔がリレーしている様を見ることが今でもできる。
高圧鉄塔は、場所によっては開けた窓からさわれそうなほどの近くにある。安
全基準ぎりぎりか、それ以下。そういうふうに危険物と共存するということは、
人々は生活の中ではその存在を見えなくしているということだ。
 そして高圧鉄塔のリレーに沿って、下を、コンクリートの蓋をされた水の川
が流れていた。そこは高度経済成長期につくられた暗渠というもので、遊歩道
と呼ばれる歩行者だけの道だった。どこか日陰っぽいその道は南北に、道幅を
増しながら南西に、伸びてゆき、数百メートルごとに、私が子供の頃からある
滑り台や砂場やブランコといった遊具を点在させている。いくつかの地点では、
今でも水音が聞こえる。暗い川の歌う声。いや、ただの空耳かもしれないし生
活排水なのかもしれないが。
 私の故郷の町。そこには二つの川があった。
 あらわすぎて見えないことにされている川と、意図的に隠された川。それら
はつまるところ、同じ性質のものだったと思う。
 私が生まれてこの目で見る前に、水は蓋で隠され、火はかたちを変えられて
隠されていた。私の祖母は塀際の八重桜を手折ろうとして川に落ちたことがあ
るというが、私には生まれてこのかたそんな危険はありえなかった。私の家の
中では、火が灯されたり何かが直接燃やされたりすることなどなかった。電灯
のスイッチを入れるだけで、家の中は明るくなった。地中に埋まった管から来
るガスは、所定の場所でだけ、青い炎で燃えた。
 危険がどんどん排除されながら、その影で、そのために、人が死んでいった
時代。私が育ったのは、そんな時代だったかもしれない。
 危険はどんどんと、見えないもの、見えにくいものになっていった。小川か
ら暗渠へ。火から電気へ。火力発電から、原子力発電へ。もしかしたら喧嘩か
らいじめへ、と言ったっていいのかもしれない。
 暗渠へはふつうは落ちないけれど、落ちたときには、小川よりずっと怖い。
人目から隠されるようにつくられたものにもし落ち込んだら、助かる見込みは
少ない。人工的に押し込めた川は、物理的にも流れが急で複雑になる。いじめ
は、喧嘩よりも見えにくいけれど、人の傷つけ方は喧嘩よりずっと深く、致死
性も高い。
 原子力発電の燃料は、見た目は単に清潔な金属、それ自体は火をつけたって
燃えもしないものが、しかるべき扱いをすれば水を一瞬で水蒸気にするほどの
パワーを出すのだから、その点だけを見れば夢の物質である。匂いもなければ
煙も出ない。ただ、自動的に反応を起こすものであるから、想定外の事態が起
きたとき、人の手の及ばない部分が多すぎる。
 ああ、私は、典型的なものたちに囲まれて育った。
 遠くから電気が高圧線リレーで送られてきて、清潔で「文化的」な生活が配
られ、コンクリートで固められた中でそれを受け取ってきた。

 そこから取り残されることを、まるですべての日本人が恐れたかのようだ。
 そしてほどなく日本のすべてが、多かれ少なかれ同じ風景になった。
 今ならわかる。私は、今の世界が、創られる最中にいたのだ。
(余談だが「文化的」という言葉は日本語として面白いニュアンスを持ってい
る。近代日本ではそれは「文化住宅」や「文化鍋」というように、快適な生活
のためのモノに対して使われてきた。憲法が「健康で文化的な生活」というと
き、それがイメージしていた「文化的」とは、一体どういうことだったのだろ
う?)

 沖縄を想定した架空の離島に、夢の核融合炉が建設されてそこが近隣の電力
奴隷にされる、という話を私は書いたことがある。
 『太陽の涙』というその作品の設定が、単なる妄想ではないと知ったのは、他
ならぬ2011年3月11日のことだ。
 そのうえ、福島県民を「奴隷」にしていたのは、私も含む東京都民だった。
 福島第一原発は、福島県民の電気などつくっていない。東京のための電気を、
つくっていたのだ。
 日本の戦後は、忘れられた民、見棄てられた民をつくりながら、固有の風景
を捨てながら、発展してきた。沖縄がそうだったし福島がそうだ。経済成長か
ら取り残された自治体に基地や原発を「押し付け」、当地に雇用をつくり、助
成金を与えた。それも、首都やその他の地域がそれらの問題を見ずにより良い
暮らしをするためだ。
 多くの都民は、福島に原発を「押し付けた」自覚も記憶もないし、むろん彼
らはそんなことをしておらず、政府だって「押し付けた」わけじゃない。あく
まで福島県民が「受け入れた」ということになっている。
 しかし、都民が何ひとつ知らず電気をふんだんに使っていたとき、豊かさに
も、福島の人々や第一原発にも、感謝ひとつしなかった。電気がどこから来る
か、知ろうともしてこなかった。
 戦争と同じ構図は繰り返されている。どこまで行っても、被害者も加害者も
入れ子状態になっている。どちらも同胞である。
 今、見えなかった人たちが見えるようになっている。日本企業が弱ってきて
その人たちは見えるようになってきた。その人たちと近い人たちが増えたから
だ。そのときには、見えない人たちの救いようが、見えなくなってしまったよう
に見える。
 見たことのないことを考えなければいけない。
 そういう時が来ている。
 それが、戦後をちゃんと終わらせるということじゃないだろうか。
 そのためにはまず、私たちが無自覚に見てきたことを、ちゃんと見ていかな
ければならない。(つづく)

┌─────────────────────────────────┐
|
|  赤坂真理
|  1964年東京生まれ。作家。
|  社員三人の出版社で雑誌編集とライターをしていた1992年ころ、ふと
|  自分に原稿を発注しようかと思い立ち、小説を書いて、95年にデビュー。
|  著書に『ヴァイブレータ』(講談社文庫 寺島しのぶと大森南朋主演で
|  映画化もされる)、『ミューズ』(文藝春秋)、
| 『ヴォイセズ/ヴァニーユ』(講談社文庫)、
| 『モテたい理由』(講談社現代新書)、『太陽の涙』(岩波書店)などがある。
|  趣味は体感を味わうことで、古武道雑誌の『月刊秘伝』を愛読している。
|  現在、本メルマガと呼応する小説「東京プリズン」を、『文藝』に連載中。
|
└─────────────────────────────────┘ 



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆
◆                                        ◆
◆ 2)『貨幣と市場                              ◆
◆        ――ケインズとハイエクが追求した「不安」』           ◆
◆       第12回 何のための自由か                    ◆
◆        ――『自由の条件』『自由放任の終焉』をめぐって       ◆
◆                       松原隆一郎            ◆
◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

◇ハイエク資本理論の謎◇
 ハイエクとケインズが経済学を越えて広く社会を論じるとき、「自由」を中
心的なテーマとしたことはよく知られている。ハイエクの名が一般の読書界に
知られるようになったのは『隷属への道』(1944)によってであったし、後半生
においては社会思想にかんする膨大な知見を駆使した『自由の条件』(1960)を
刊行、そしてそれを補完する三部作『法と立法と自由』(1973-79)の完成に心血
を注いだ。一方ケインズは、自由を論じたまとまった論考としては「私は自由
党員か」(1925)『自由放任の終焉』(1926、注1)が目立つ程度ではあるが、後
者はわざわざパンフレットの形で出版している。
 ハイエクとケインズの社会経済思想を比較するという本稿の趣旨からすれ
ば、「自由」は両者がともにこだわったテーマとして注目されるが、さらに踏
み込んで、彼らは自由を独自の経済論を活かす状況に絡めて論じたと解釈した
い。彼らは経済学とは別の政治や文化の次元で自由を論じたのではない。むし
ろ経済における自由とは何かを突き詰めた結果、それぞれの自由論を出版する
に至ったのである。
 それではハイエクの場合、初期の資本理論と後期の自由論はどのように接合
しているのだろうか。社会主義計画経済論争とのかかわりで自由論が芽生えた
とされることは多いが、それ以前から取り組んでいた資本理論との接点はさほ
ど明かではない。学界の内輪話めいた話題ではあるが、ハイエクが自由を社会
哲学として論じることを理解するポイントとなるので敷衍しておきたい。
 学説史を論じる人々、たとえばB.J.コールドウェルなどは、ハイエクが論
文「経済学と知識」(1936)を執筆したことによって1930年代前半までの均衡論
を用いた資本理論から離脱し、さらに知識論を展開することで自由論の社会哲
学に至ったのだ、と主張している(注2)。ハイエクがかかわった計画経済論
争において、L.ワルラスの一般均衡論はむしろ計画経済の道具として使える
のだということをO.ランゲが論証してしまった。そこで現実の市場を描写する
には不十分だということが明かになってしまい、ハイエクは均衡論を放棄して
知識論に向かったというのである。けれども、この理解はさすがに単純にすぎ
る。なによりハイエクは、純粋に資本を論じた最後の書、1941年の『資本の純
粋理論』(注3)では再び実物タームでの均衡論を詳細に展開しているからだ
(注4)。
 なぜ、ハイエクは均衡論に回帰したのだろうか。まず「経済学と知識」でハ
イエクは、こう主張している。均衡論は経済活動するに当たってすべての人の
計画が予想通りに運ぶとしたときに意義を持つ「選択の純粋理論」ないし「純
粋な経済分析」であって、現実の描写ではない。というのも、現実の市場では
すべての人の予想がかなえられることはありえないからだ。予想が間違ってい
たと気づいた人は正しく予想した人から知識を得て、計画を変更するだろう。
現実の市場で異なる諸個人が出会うと、時間の経過とともに均衡論では与件と
されていた知識が変化してしまう。それゆえ均衡状態は破壊されるのである。
 とはいえ市場は均衡しないかといえば、そうでもない。経験的には企業家の
もつ期待は次第次第に事実に合致してゆくし、それ以外の成員の知識と意図も
徐々に一致する方向に進む。こうして市場では秩序が自生する。しかしその条
件や個人の知識が変化する過程については、ほとんど分かっていない。均衡に
向かう傾向は経験的命題として定式化されるべきであり、それを行うならば経
済学は純粋論理学ではなくなり、実証的な科学になる。つまり均衡論は先験的
命題、非経験的な思考実験としてのみ有効であり、経験的命題としては自生的
秩序として記述されるというのである。
 一般均衡論を用いて現実の日本経済を分析するといった研究があるが、そう
したものは理想と現実を混同していて、ハイエクによれば一般均衡論は現実に
需給の均衡量を発見するための手法としては用いられないというのである。
  では『資本の純粋理論』で詳細に論じられた均衡論とは何なのか。それがま
さに思考実験であった。「均衡概念に現実的な解釈を与えようとすれば、その
純粋に虚偽的な特質を率直に認めれば得られる重要性を失うことになる」。均
衡論には「純粋に虚偽的な特質」があり、それを自覚している限りでいまだに
有効だ、というのである。
 しかしそれにしても、なぜハイエクは社会哲学としての自由論に向かう途上
で、均衡論に立ち戻ってまで資本を論じる必要があったのだろうか。そこには、
1930年代におけるF.ナイトとの資本論争や、ケインズの『雇用・利子および貨
幣の一般理論』(1936)が影を落としている。ナイトは『資本の純粋理論』の
表現では「アングロ・アメリカ」型の資本理論、ケインズは(ケインズその人
の「一般理論」がというよりも)マクロ経済学への影響が顕著であり、これは
自由社会にとって害悪である、とハイエクは判断した。
 新古典派の資本理論とマクロ経済学は、ともに「資本の異質性」を認めてい
ない。しかし市場とは、企業家が異質でありながらも流用が不可能ではない資
本を、分散する具体的知識に即しつつ活用する場である。その結果として、資
本財や消費財の異同を特徴づける規則性が編み直され、新たな規則は模倣され
伝搬されてゆく。これこそが自由経済システムとしての市場の存在意義である。
ところが新古典派にせよマクロ経済学にせよ、資本の異質性を認めないせいで、
市場のそうした特質の理解を端から追い出している。
 それだけではない。資本の同質性を仮定すると、市場経済に設計主義が接ぎ
木されてしまう可能性すら生じてしまう。したがって市場における自由を核に
より広く社会哲学としての自由論を展開する以前に、いま一度「資本の異質性」
を軸に据え資本理論を確認しておく必要がある。そうハイエクは考えたのでは
ないか。
 そもそもハイエクは『貨幣理論と景気循環』(1928)や『価格と生産』(1931)
といった資本理論で、貨幣の供給量が変化したために物価水準が上昇し、個々
の商品の生産量も増えるが、貨幣供給の増加が停止すれば不均等に価格が下が
るために恐慌が起きるという「貨幣的景気循環」を描いた。一方、ハイエクが
出発点としたベーム・バヴェルクの資本理論では、原料や機械・道具といった
「具体的資本財」の迂回生産に時間がかけられ、最終的に消費財が生産される
という面が強調されていた。
 ベーム・バヴェルクは、消費財の産出までに長い生産期間をかけるのが資本
制の生産様式だとしている。資本制において生産主体たる企業家の働きとは、
労働と具体的資本財をどのように結びつけるかという生産方法の選択であり、
それは生産期間を逐次変更することでもある。ハイエクの資本理論は、こうし
たベーム・バヴェルクの実物的な生産期間の理論に資本財と消費財の相対価格
による調整のメカニズムを重ね、企業家が相対価格の変化に導かれて労働を移
動させ、別の具体的資本財と結びつけて生産期間を変更する過程として市場経
済を描いた。そして相対価格を攪乱的に変化させる信用拡張を批判したのだっ
た。
  こうしたハイエクの資本理論に噛みついたのが、ナイトであった(注5)。ナイ
トによれば、ハイエクを始めとするオーストリー学派は、時間を遡ることで資本財
の起源をそれ以外の本源的生産要素に求めうると仮定して、資本は周期的に
減耗し再生産される「寿命を持つ物財」および労働者の生計維持のための「賃
金基金」にすぎないとしている。しかし資本財を作るのに道具が用いられた期
間が人類史の始めにまで遡りうるとすれば、迂回期間は人類史のすべてとい
うことになってナンセンスである。
 ナイトは、資本をそれ以外のなんらかの本源的要素の生産物と言っても何か
を説明したことにはならないという。とすれば、資本は現時点において協同し
て働くすべての要素の生産物としか言いようがない。資本とは恒久的に用役を
提供し価値の流れを生み出す能力であって、具体的な資本財に具現された「恒
久的基金」である。こうして、ある時点における生産設備の理論的販売価格は、
将来収益を同一率で割り引いて数学的に現在価値化したものだとされた。正し
い予想と計画のもとにおける資本量は、完全競争のもとでは建設費が予想収益
の現在価値に一致するよう決定されるという。
  これに対しハイエクは、ただちに反論した(注6)。ひとつには、ナイトはオー
ストリー学派における資本財の価値につき過去における本源的要素の投入か
ら成るものとみているが、それは過去を振り返る(backward-looking)見方であ
って、間違いである。本源的生産要素が投下される時点から、消費財が完成す
る将来時点までを眺める(forward-looking)見方を問わなければならない。そう
すれば、資本財にどれだけ本源的生産要素が混じっているのかは問題になら
なくなる。ただしこの場合、資本財を新たに生産するには、「予想」ないし「期
待」が伴う。ナイトも予想を重視しているが、資本が生み出す用役を貨幣価値
に現在価値化できるとするのは、将来収益につき完全予想を仮定しているから
だ。不確実性を市場経済の本質的な要素とみなすなら、予想が完全と仮定する
のは無意味であり、単純に「恒久的基金」などと言えない。
 ただしナイトの批判は、ハイエクにというよりもベーム・バヴェルクの議論に
向けられたと言うべきかも知れない。というのもベーム・バヴェルクは、どんな
現存の資本財のストックも確定した日付に成熟する消費財の特定量と等価
である、すなわち一定量に対応すると仮定している。つまり彼は、すべての現
存する資本は唯一かつ特定量の消費財にしか転換されないという意味で完全な
る特殊性を持つと仮定している。だが中間生産物が特殊とすれば、企業家はそ
れを使うか放棄するかしか決定できない。ところが現実の企業家は、なにほど
かの危険を冒しつつも新規に投資し、また既存の資本財をやりくりして転用す
るものであろう。つまり資本財は、はじめに意図された以外の用途にくりかえ
し供された歴史的プロセスの結果として、ある時点で存在しているのである。
 ここでハイエクは、資本は異質性を持ち、しかし不滅でもないから、転換の
可能性が問われるべきである、と方針を立て直す。これは、ナイトのように資
本とはそれを構成している実物財の価値とは独立にその大いさを維持しつづけ
るある所与の価値量であるとか、資本は完全に可動的であって、意のままにな
んらの損失もなく別の形に変換可能であるとはみなさないということである。
このような単純化をやめ、より資本制の現実に即して、ある程度まで転用しう
るような資本財を想定すべきなのだ。企業家は、投資や現存する資本財の転用、
労働との結合を行いつつ、生み出される多数の将来収益のうちどれを選ぶかと
いう問題を解いている。彼らが市場で自由に活動できてこそ、物財としての資
本はさまざまに転用され、意味を変えていくのである。
 こうして資本理論は、予見されない変動を含む状況において、異質ではある
が流用が可能でもある資本財の所与のストックをいかにして有効に使用するの
かを論じるべきとされた。生産過程では、異質な資本が企業家の工夫次第では
同質にもなりうるのだ。その思考実験を綴ったのが『資本の純粋理論』であり、
そこでは非定常状態における実物タームの均衡論という枠組みで「平均生産期
間」が分析された。だがその結果は、ベーム・バヴェルクのモデルや定常状態
の均衡論――ハイエクが「単純現象の理論」と呼んだもの――に比して極めて
錯綜したものとなった。非定常状態の均衡論という「複雑現象の理論」は、分
析するにはあまりにも面倒なものとなり、思考実験としても放棄せざるを得な
くなったのである。
 整理してみよう。初期の景気循環論においては、貨幣供給の意図せざる増加
によって均衡が攪乱を受けるという不均衡状態が描かれた(A)。これに対し
『貨幣の純粋理論』は企業家による生産期間の選択を、将来の不確実性と資本
財の異質だが非恒久的な性質、すなわち非定常状態として扱おうと試みた。そ
こでそれ以上の複雑化を避けるために貨幣は存在しないものとされ(貨幣は価
値尺度としてのみ導入され、保蔵手段ではないとされる)、諸財の需給は均衡
するとされた。資本財と消費財の異同にかんする純粋な思考実験に属する議論
である(B)。現実的には貨幣が存在する以上、不均衡はまぬがれがたい。し
かし不均衡とは予見が成就しないということだから、失敗から学ぼうとする人
は成功者を模倣するはずだろう。それが「経済学と知識」で切り開かれ、『自
由の条件』以降の社会思想につながる与件としての知識が伝達された場合(C)
である。ここでは資本財と消費財の異同は、知識や認知の次元も含めて論じら
れることになる。つまり経済学の境界線上にあった初期の貨幣的景気循環論―
―不均衡非定常理論――(A)は、経済学内部に止まる貨幣抜きで異質な資本の
理論――均衡非定常理論――(B)と、社会諸思想を総合し、より現実的な知識
伝搬論・自由論(C)へと分岐することとなったのである。ここで、均衡から自
生的秩序へと用語も転換されることになる。

◇自由がもたらすもの◇
 この(C)によれば、人は巨大すぎる世界で無数の具体的な事実に直面してお
り、しかし自分の身辺についてしか具体的には知らなくとも、対処しえている。
市場価格はそれぞれの商品がどれだけ需要されているかを相対的に示し、利潤
はどの生産段階が儲かっているのかを表し、一部の人に期待通りに成功を与え、
他の人には期待はずれと失敗を宣告して、成功者の模倣を促すのである。
 ただし、模倣されるのは具体的な知識そのものではない。具体的な知識は、
知性によって理解され身体によって知覚されて、全体として世界を仕分けし分
類する。世界はありのままで客観的に存在しているのではなく、主観的な知識
の体系としての「抽象的な規則」によって分類され理解・知覚されるのである。
その分類の仕方を商品により提示するのが企業であり、消費者は市場に拡がる
様々な分類のうち好ましいものを選択する。法や言語、科学も世界についての
主観的な分類を変更するが、市場はその中核において方向を定める。ハイエク
は1952年の『科学による反革命』では、こう述べている。
 
     経済活動は客観的用語ではなく人間の目的に関連した用語によってのみ
  定義されうることは言うまでもない。「商品」とか「経済財」あるいは「食料」と
  か「貨幣」はいずれも物理用語ではなく、人びとが事物にかんして抱いてい
  る見解を示す用語によってのみ定義されうるのである。……実際、 どんな
  特定の商品の歴史をとって見ても、人間の知識が変化するにつれて同じ物
  質的なものが、まったく異なった経済的カテゴリーを表示するということは明
  らかである(F.A.ハイエク『科学による反革命』佐藤茂行訳、木鐸社、1979、
  第一部「科学主義と社会の研究」第三節「社会科学のデータの主観的性
  格」)。

 似たことを、ハイエクと同郷(オーストリア)の経営学者P.F.ドラッカ
ーも述べている(注7)。1930年代、キャデラックを製造しているGMの社員
はキャデラックは自動車という客観的なカテゴリーにおいて他のブランド自動
車と競合する代替財と考え、輸送手段としての機能を高めたり価格を下げたり
努力したが売れ行きの低落に歯止めがかからなかった。しかし「キャデラック
の新車に大枚のドルを支払う者は、輸送手段としての車を買っているのか、そ
れともステータスシンボルを買っているのか」という問いが湧き、キャデラッ
ク事業部の主任は「われわれの競争相手はダイヤモンドやミンクのコートだ。
顧客が購入するのは、輸送手段ではなくステータスだ」と発想を逆転させた。
キャデラックは、顧客の主観においては輸送手段ではなく「ステータスの表示
手段」であり、ダイヤモンドやミンクのコートといった代替財とともに贅沢品
というジャンルに配置されていたのである。
 キャデラックをメーカーの開発者の意図を裏切り贅沢品として位置づけたの
が、市場だった。開発当事者がキャデラックを「輸送手段」として製造したの
に、市場は「贅沢品」のジャンルへと分類を編み変えた。機能を上げるとして
も、輸送手段としてたんに速度を高めるよりももっとゴージャスに見える走り
方をしなければならず、ダイヤやミンクが似合うような内装と高級感をもたら
す値付けがなされねばならなかったのだ。
 市場のこのような働きを活かそうとするのだから、『自由の条件』や『法と
立法と自由』においてハイエクが唱えた自由は、立法や行政に参加するという
意味での「政治的自由」でも、感情や道徳・知的な弱さからの自由すなわち「内
面(形而上学)的自由」でもない(注8)。近いのはある人が他人の恣意的な
強制に服していない状態という意味での「個人的自由」で、R.ノージックのよ
うなリバタリアンならば、あらゆる権利や自由を個々人が平等に保障された状
態を求める。つまり多くの自由論が「個人的自由」を目的とする。ハイエクも
まずはそれをもって自由の状態と定義するが、それはあくまで条件にすぎない。
「重要なことは、わたくしが個人的にどんな自由を行使したいかではなくて、
社会にとって有益なことをおこなうためにある個人がどのような自由を必要と
するのであろうかである」(注9)。
 ハイエクにとっては、個人にとっての自由が目的なのではない。それは知識
の伝搬と分類の変更をうながす市場を制度として有効にするための条件なので
ある(注10)。「自分の知識が指示した手段によって、自身の目的を追求す
るという自由な行動は、他人が勝手に形成することのできないデータにもとづ
くものでなければならない」(注11)。
 この点に留意すれば、ハイエクの自由論がたんなる「小さな政府」を目指す
ものでないことは明かだろう。「経済活動の自由とは、法のもとでの自由の意
味であって、すべての政府活動の欠如の意味ではなかった……(A.スミスや
J.S.ミルら)が原則の問題としては反対した政府の「干渉」あるいは「介入」と
は、それゆえに法の一般的規則によって守ろうとしていた私的領域の侵害のみ
を意味したのであって、政府が自ら経済問題にもかかわってはならないとは考
えていなかった」(注12)。
 自由とは法の拘束を受けることなのであり、法によって個人が私的領域への
侵害から守られる程度には政府は大きくなければならない。けれども自由と「法
による拘束」は、矛盾しているかに見える。というのも「法の支配」は、字面
の上では国家が法律によって個人を縛ろうとすることに見えるからだ。そこで
ハイエクは、「自由の法」につき注釈を三つ加えている。
 第一に「法の支配」とは、政府の権力に限界を画するものである。自由な社
会において、人は等しく適用される規則に従う限りで、私的な領域では誰にも
許可を求める必要がない。立法府も含め、あらゆる政府の権力に限界が設定さ
れているのである。法の支配とは、法律による個人の規制ではなく、まずは立
法のあり方にかんする原則(超−法的原則)なのだ。
 第二は、法が確実であり、知られていること。ここでいう法の確実性とは、
裁判の結果がおおよそ予測できるということを指す。紛争は、法が何を述べよ
うとしているのか不明確で当事者が相互に異なる理解をするからこそ起きる。
法の内容が確実であるならば、法がどのような判定を下すのか双方の理解が近
いものとなるから、訴訟にいたらない可能性が高まる。だが法の内容は、必ず
しもすべてが明文化されてはいない。それだけ不確実であるのだが、法が暗黙
のうちに何を含意しているのかは、裁判の過程で発見されていく。
 第三に、いかなる法律もすべての人にたいし等しく適用されねばならない。
これは、人により法律が異なるやり方で適用されてはならないということであ
る。規則は特定の場合を念頭につくられてはならない。行政には一定の範囲で
は自由裁量が認められざるをえないが、すべての市民が通念に照らして平等に
扱われていると確認されねばならない。これを保証するには、政府から独立の
司法が存在して、行政の行動が再審理にゆだねなければならない。こうして「権
力の分立」が必要になる。
 「法の支配」は、政府の権力の限界、法の確実性、権力の分立から成るのであ
る。ハイエクにとって、社会が自由な状態とは「法の支配」が確立しているこ
とと同義だが、社会主義こそがそれに反するものとみなされる。さらに多数者
の利益にかなうよう不平等な法の適用を認める可能性がある民主主義や、報酬
を他人に対するサービスの価値にではなく功績や美徳に一致させようとするメ
リット(功績)主義も、社会主義への道を開くとして危険視されている。

◇ケインズと「自由の条件」の終焉◇
 「法の支配」に敵対的な時代精神を描写したものとしてハイエクが『法と立法
と自由』(第1章)で掲げるのが、ケインズの『若き日の信条』(1938)の一文
である。

   われわれは、一般的ルールに従うべしというわれわれに課された個人的
  責任を全面的に拒否した。われわれは、個々のケースをすべてそのメリッ
  トにもとづいて判断する権利を主張し、また立派に判断できる知恵と経験
  と自制心を備えていると主張した。
 
 ハイエクによれば、これはケインズその人のというよりも、彼の若き日に蔓
延していた精神である。一般的ルールを拒否し、個別のケースごとに不平等な
判断を下すというのだから、ハイエクにとって「法の支配」と対照的なものと
映って不思議ではない。
 では、自由放任を批判するケインズの『自由放任の終焉』はどうか。この小
冊子が出版されたのは1926年だから、ケインズが英国の金本位制からの離脱と
管理通貨制の採用を唱えた『貨幣改革論』を刊行し、次回作『貨幣論』の構想
を練っていた時期に当たる。大恐慌は到来していなかったが、19世紀のヨーロ
ッパを席巻した自由放任主義はすでに隘路にはまっていたとケインズは断じ
る。
 ケインズによれば、19世紀には思想上の奇妙な野合が見られた。仇敵である
はずのロックやヒューム、バークの個人主義が、ルソーやペイリー、ベンサム
およびゴドウィンの民主的平等主義と調和して自由放任主義が台頭したのであ
る。何故、そんな光景が現れることになったのか。仲を取り持ったのは、スミ
ス以降の経済学者である。スミスは人々の自己利益の追求が、自然法の作用に
よって公共の利益の増進をもたらすと唱えた。それに続く経済学者たち、なか
でもJ.ベンサムがこの命題に科学的装いを与え、自由放任の原則は個人主義と
社会主義を調停するとされた。「「実業家」business manは、まさに自己の私
的利潤を追求するだけで、哲学者の唱える「最高善」summum bonumを達成す
ることが可能になった」とみなされたわけである。
 だがこの原則も、長続きしなかった。自由放任が公共の利益をもたらすには
「条件」があるが、それが現実にそぐわなくなったのである。ケインズはここ
で、6つの「非現実的想定」を列挙する。効率的な生産単位が消費単位よりも
相対的に大きいとき、共通費用ないし結合費用が存在するとき、内部経済のた
めに生産の大規模化が有利になるとき、調整期間が長いとき、無知が知識以上
にはびこるとき、独占とカルテルが取引の平等を妨げるとき、という6つの状
況である。そうしたケースでは「企業家に任せておけば手を取って天国に導い
てくれるのか疑問」になり、「世界は私的利害と社会的利害とが常に一致する
ように天上から統治されているわけではない」。したがって個人主義よりも「個
々人が一つの社会単位にまとまっている」ことが推奨される、というのである。
具体的な経済政策としては、通貨及び信用の中央機関による管理、企業実態の
把握、貯蓄と投資の調整、人口政策等が挙げられる。
 なかでも「現代における最大の経済悪は、危険、不確実性、無知に原因する
ところが多い」という指摘は、「一般理論」との関係から言っても重要である。
ケインズは終生、人間は不確実性ゆえに確率計算とは別次元の重みを持つ「不
安」にさらされていると訴えた。初期は帰納法という推論の形式にかんして、
後期には市場経済で活動する投資家について。市場においては、不安に苛まれ
た人々が保有しようと殺到するのが貨幣である。ところが将来の不確実性に注
目したはずの『資本の純粋理論』で、ハイエクは貨幣を価値保蔵手段ではなく、
たんなる価値尺度とみなしてこれを捨象した。『資本の純粋理論』は、人々が
将来の不安に苛まれたとしても過大な貨幣保有に奔走しない、流動性の罠が起
きないという想定で書かれた書であった。概してハイエクの市場には、不確実
性にさらされても楽観を手放さない人々だけが登場する。
 もちろん現実には、価格や利潤だけが情報を伝達するのではない。『自由の
条件』で想定されるように、法の確実性にかんする想像により、成功と失敗を
めぐる対話により、知識は拡散されていく。だが知識といっても、確率が数値
で表されるほど確実性の高いものばかりとは限らない。むしろ不安の「重さ」
だけが先走る可能性もある。
 ハイエクは市場の機能を世界についての分類を編み変えることにあるとみな
したが、それが安定的に成し遂げられるのは、将来の「重み」が一定の範囲に
収まっている場合に限られる。過大な楽観によってバブルが生じ、過剰な悲観
が恐慌をもたらすという、人の判断を起点とする不均衡は想定されていないの
である。だがいったんバブルや恐慌が生じると、価格機構はそれを収束させる
どころか、累積的に拡散させかねない。市場は不均衡を清算するとは限らない
のだ。
 ハイエクのみならず現代の市場経済論でも、市場は政府よりも合理的とされ
ている。だが人の判断が不均衡の原因となるとき、市場は不均衡を拡大する媒
体となる。ケインズは若き日のみならず、死を迎えるまで様々な予言を自慢げ
に宣告したのだが、将来起きる事象の確率についてならば、なるほど合理的期
待形成論などが論じたように不可能であろう。だが彼の標的が、社会心理の「重
み」を変えることであったなら−−。累積的な不均衡から世界を救うのは、人
々の心理を上向きにさせ判断を変えさせるような、信頼ある人の行動であろう。
リーマン・ショックの直後に世界の主要国が団結して対処しようとしたのも、
乗数効果などという数理的な効果を狙ってではなく人々の心情に訴えようとし
たからであった。
 ハイエクにとって市場とは、消費者に利益を与え評価を勝ち取るよう、企業
家が資本財を様々に転用していくようなゲームである。その過程を通じ、消費
財も資本財も、何が同じで何が異なるかという識別の規則を編み変えていく。
市場においては、個々の商品の異/同こそに意味があるのだ。一方ケインズに
とって貨幣経済がそのように順調に機能を果たすのは、人々が「確信の重み」
を得ている場合に限られる。確信が揺らぐとき、貨幣は流通しなくなったり(恐
慌)、過剰に流通したり(バブル)する。誰が確信をもたらすのか。ハイエク
はそれが言葉や法、貨幣供給の規制によってもたらされるのだと言い、ケイン
ズは哲人的な預言者に期待を託している。つまるところ両者の相違は、確信を
もたらすのを誰とみなすのかにある。(つづく)

注
1.J.M.Keynes,Am I a Liberal?,Essays in Persuation,1931,The End of Laissez-
   Faire,1926(「自由放任の終焉」『説得論集』、ケインズ全集第9巻;宮崎
    義一訳、東洋経済新報社、1981)
2.Bruce Caldwell, Hayek’s Transformation, 20 Hist. Pol. Econ. 513 (1988).
3.F.A.Hayek,The Pure Theory of Capital,1941(ハイエク全集;第2期第8巻、
   江頭進訳『資本の純粋理論T』春秋社、2011)
4.ランゲによれば、ワルラス型計画経済においては、計画当局は価格を操作
   し需給を一致させることを担当し、個々人は自分の欲求や技術、チャンス
   にかんする具体的知識を価格に照らし合わせればよいという。したがって
   当局は分散する知識を集計する必要はない。多くのハイエク論は「分散す
   る知識」を利用できるのが市場であると指摘したのがハイエクの功績とし
   ているが、それはワルラス型計画経済においても可能である。ハイエクが
   乗り越えねばならなかったのは、むしろこの問題であった。そしてハイエ
   クの出した答えは、当局には商品の客観的分類を行いそれぞれに対して価
   格を設定・操作することが不可能であり、商品や資本の主観的分類を行う
   ことができるのは市場だということであった。この点はこれまでに十分に
   は理解されていない。
5.F.H.Knight,Professor Hayek and the Theory of Investment,Economic Journal,
   Mar.1935,pp.78-92.
6.F.A.Hayek,The Mythology of Capital,Quarterly Journal of Economics,Feb.1936
7.P.F.ドラッカー『エッセンシャル版マネジメント 基本と原則』上田惇生
   編訳、ダイヤモンド社、2001
8.『自由の条件』邦訳、第1章
9.同1、p.50
10.前述のように、客観的な商品の分類に応じた具体的な知識の発見や伝搬だ
    けならば、計画当局にも可能である。市場が全体としての商品の主観的分
    類に変更を加えることこそが、計画経済にはなしえないことである。
11.同2、pp.35-36
12.同2、p.124

┌─────────────────────────────────┐
|松原隆一郎(まつばら りゅういちろう)              
|1956年生まれ。神戸市出身。東京大学工学部都市工学科卒業。東京大学大
|学院経済学研究科博士課程修了。現在、東京大学大学院総合文化研究科教
|授。専攻は社会経済学・相関社会科学。社会科学と俗世に関する該博な知
|識を駆使して論壇でも活躍、アカデミズムとの相互乗り入れを図る。  
|著書に『失われた景観』(PHP新書)、『消費資本主義のゆくえ』『経済
|学の名著30』(以上、ちくま新書)、『分断される経済』『長期不況論』
|(以上、NHKブックス)、『武道を生きる』(NTT出版)、共著に『<新しい
|市場社会>の構想』(新世社)などがある。                                  
└─────────────────────────────────┘



  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆ 
◆ 3)『本気で考える池田屋事件』最終回        ◆ 
◆                  中村武生      ◆ 
◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
  
 毛利家家老浦靱負(ゆきえ)の日記(以下「浦日記」)によれば、山口への
池田屋事件の報は、6月12日に大楽源太郎によってもたらされている(元治
元年<1864>6月13日条)。その内容は、「京都で去る5日、変があった。浪士
が潜伏していると主張して会津その他多人数が池田屋へ切り入ったそうだ」と
いう簡略なもので、委細はあらためて宍戸左馬介(九郎兵衛)から届けられる
と述べた。
  
 宍戸は大坂屋敷の留守居役である。池田屋事件の報であるから、当然京都屋
敷から発せられるべきものである。つまり乃美織江から届けられるはずである。
それとも京都発のものでも、大坂を経由して正式には大坂から出されるという
形式をとるものなのか、よくわからない。浦の単なる聞き違いだろうか。

 同じく「浦日記」6月13日条によれば、つづいてその夜、有吉熊十郎(熊
次郎か)や長府の熊野清右衛門が山口に着いたとある。浦は政事堂で両人
と直接対面し、京都での事件のあらましを聞いた。その内容は以下の通り。
  
  5日夜九つ時分(6日午前0時ごろ)、会津その他の勢力がおよそ七百人
  御屋敷(河原町長州屋敷)を大廻りに囲った様子である。なおまた池田屋
  で肥後人そのほか集会いたし、居を不意に多人数が打ち入り、肥後人宮部
  鼎蔵ほか一〜二人殺害されたらしい。吉田稔丸(としまろ)も一応(河原
  町長州)邸へ帰り、事件のおおよその内容を上申した。(その上で)槍を
  引っ提げ駆け出し、加賀邸の前で(敵と)戦ったのか暗夜のことなので前
  後は分からないが、あわれむべし、ここで打死いたした。杉山松助も二ノ
  右手を深く切られ出血(多量)して死んだ。そのほか「下分」も一人切ら
  れ、池田屋にて○(石+斥)された者も多く一家ことごとく捕らえられた
  そうだ。翌日五つ時ごろ(午前8時ごろ)引き取り、京都の出入り口が各
  所で厳重となり、とくに長州人(の出入り)は禁止され通行がむつかしか
  ったそうで、熊十郎は長府の飛脚(の姿)になって通行したそうである。
  誠にもって苦々しき次第だ(意訳)。
    
 この内容については、すでに吉田稔麿と杉山松介の最期を論じたおりにふれ
たので立ち入らない。有吉・熊野の両人は7日に京都を発っている。これが大
楽の述べた正式の使者なのかは分からないが、京都を出発している以上、乃美
織江による使者と思われる。この両人の出発を桂小五郎も承知していたことは
重要である(同年6月11日付久坂義助宛桂小五郎書翰<『木戸孝允文書』2、
32ページ>、同年6月7日付桂宛熊野清右衛門書翰<『木戸孝允関係文書』3、
397ページ>)。

 当時桂は、乃美と同じく京都留守居役である。だから使者派遣を知っていて
当然だ。が、その存在が意外とこれまで見落とされてきている。この時期の桂
が京都のどこにいたかわからないが(長州屋敷か対馬屋敷か)、このことは乃
美織江と連携が取れていることを示唆している。つまり乃美が池田屋事件の夜
の桂の動向を認識していないとは思いにくい。その乃美が、新選組の池田屋襲
撃の際、桂は池田屋にいたと記しているのである。くどいが、事実とみるべき
だ。木戸の回想のみを受け入れて、池田屋集会に遅刻し難を逃れたと認識すべ
きではない。

 さて上記のように従前「浦日記」によって、山口への事件の第一報は6月
12日に届いたとされてきたが、実は三条実美ら五卿の周辺にはもうすこし早
く着いていたとみられる史料がある。五卿の側近土方楠左衛門(久元)の日記
「回天実記」である。これには3日前の6月9日条に記載がある(東京通信社
刊、91ページ)。当時土方は、山口南郊氷上山興隆寺山内の宿坊に住していた
(『回天実記』文久3年11月18日条、25〜26ページ)。五卿の居所は山口の
前町や、西郊の高田・湯田である(元治元年6月8日条、91ページ)。
    
  京都より飛報あり。去る5日、宮部鼎蔵ならびに同志の者など三条小橋の
  旅寓において幕府新選組に襲われ死亡者七人、負傷者四人におよび、二十
  三人は捕縛された。実に憤慨のいたり、覚えず。切歯扼腕(「扼腕切歯」)
  した(意訳)。
    
 京都からの情報とはあるが、使者が誰であったのか、何者が派遣したものか
は分からない。これをそのまま受け入れるには、いささか問題がある。1日て
いどならともかく、山口政事堂到着の使者より3日も早いというのはありえな
いのではないか。

 もちろんたとえば事件の翌日(6月6日)に京都を出発し、船などで急げば
9日に山口到着は困難ではないかもしれない。が、死傷者・負傷者・逮捕者の
数が(事実かどうかともかく)実に具体的であるのが気になる。

 「浦日記」は宮部鼎蔵の名前は出しているものの、池田屋での戦死者を二〜三
名と記すほか、吉田と杉山が長州屋敷や付近で死んだこと、「下分」(下級役
人の意で吉岡庄祐か)も一人切られたこと、池田屋屋内で逮捕者が多かったと
ふれるていどで全体の犠牲者数については記録していない。事件直後の情報と
しては不備で当然と思われる。その使者より早く京都を出発した者の情報の方
が詳細であるのは腑に落ちない。

 しかも『回天実記』(東京通信社刊)の記した死者七人、逮捕者二十三人と
いう数字が気になる。これは何度も紹介してきた6月8日付、国元宛の近藤勇
書翰が記す数値とまったく一致する。近藤の書翰は、どういうことか事情は不
明であるが、各地の風説留に記録されている。事件から早い段階で広く流布し
たふしがある。

 ひとつの可能性として、実は、『回天実記』の上記部分はのちに欄外などに
加筆された部分で活字化の段階で、本文に挿入されたのではなかろうか。「回
天実記」の自筆原本にあたれないので、実際どういう状態なのか不明だが、主
題である池田屋事件の報がいつ山口に到着したか、その後の率兵上京の動きと
の兼ね合いからして些細なことではないと思うので指摘しておく(新人物往来
社刊『回天実記』では、捕縛者の部分が「其上三名」になっているが、同書は
東京通信社版を底本とした再刊なので、単純な誤植と考えられる)。

 6月4日の世子毛利定広の出兵決定以後、防長では東上の動きが激しくなっ
ていた。5日、6日には小郡で毛利定広の軍事訓練が行われ、三条ら五卿も見
学した。土方楠左衛門も東上を決意し、問題の6月9日には三条に暇乞いをす
る。ただしこの願いは、6月11日までに毛利慶親や三条実美らに慰留され断
念する。水野丹後とともに三条実美を補佐し、他の四卿と毛利家の間に立って
諸事周旋を要望されたからである。

 翌6月12日、土方と真木和泉は同伴して、未明七つ時(午前4時ごろ)、お
そらく氷上山興隆寺を出立し宮市におもむいた。真木は土方らとちがい「軍議
総裁」として東上することが決定している(『回天実記』6月11日条)。

 ここで来島又兵衛・湯川某・中村九郎・久坂義助(玄瑞)・入江九一・野唯
人(中村円太)と面会し、率兵上京の評議をしていたところ、毛利慶親より使
者が駆けつけてきて、おいおい「京師擾乱(じょうらん)」の模様もはなはだ
しくなり、宮部鼎蔵ら惨死の報知もあり、少人数の軽卒な東上はとてもこころ
もとないと思われるので即時出兵はしばらく見合わせなさいといってきたとい
う。「京師擾乱」が池田屋事件とその後の浪士追捕であることはいうまでもな
い。これが有吉・熊野らの山口到着をうけてのことである可能性は高い。

 興味深いことに、君公毛利慶親は池田屋事件以後の京都の詳細を知り、即時
出兵をしばらく見合わせることを勧めてきたのだ。さらに興味深いのは、来島
又兵衛が「一応可然(しかるべき)トノ説」だったのを、入江九一・久坂義助
らが従わなかったことである。この時期にきて片時の猶予もなりがたしと言い
張り、ついに乗船・出発を決したというのだ(『回天実記』6月12日条、94
〜95ページ)。

 これは池田屋事件から禁門の変への過程の通常理解と異なる。一般に「池田
屋事件の報が山口に届くと、京都へ向けて兵を送るのを自重していた長州藩政
府は方針を転換し」出兵を命じたなどと理解されることが多い(松浦玲『新選
組』78ページ、岩波書店、2003年)。

 が、すでにふれたように、率兵上京は池田屋事件以前に決定していた。世子
毛利定広の軍事演習、真木和泉の「軍議総裁」就任、留守組の決定など着々と
出兵の日を迎えようとしていた。池田屋事件が起きたから率兵上京が実現した
というのは事実ではない。それどころか従前出兵の主唱者とされてきた来島又
兵衛が、池田屋事件によってむしろ時期尚早という意見に賛意をしめしたとい
うのは、かなり事情がちがう。

 ただし6月14日、君公慶親が家老益田右衛門介に出兵を命じたのちは、逆
にこれが「本義」の最重要に改められた。すなわち出兵の「本義」四つとは、
第一が攘夷を国是とすることの嘆願と五卿と毛利父子の冤罪を哀訴すること、
第二は(福原越後を)関東下向途中で変を聞いて余儀なく滞っている(ふりを
する)こと、第三が在京浪士の鎮静、第四が池田屋事件の実行者を探索するた
め(「京都五日之変を聞、狼藉者穿鑿之ため」)で、最後の第四を最重要に位
置付けた(日本史籍協会編『吉川経幹周旋記』1、279ページ)。

 理由は、八月十八日政変(「堺町之変」)の際、会津らが武器をもって堺町御
門前の警衛所前へ兵を出張させてきたことがいまだに不審であるのに、今回も
同様のことがおきた。つまり京都は数多くの狼藉者が群集して暴行をはたらく
ところとなっている。そうならば朝廷の威徳に傷がつくことが大変問題だし、
(毛利家の)武門の面目も立たないということである。だからこの狼藉者をみ
つけ次第一戦して京都から排除し、そののち攘夷の国是をたてると主張する。

 禁門の変にいたる政治過程を詳細に検討した原口清は、池田屋事件によって
(率兵上京は)「さらに早められ」、「軍事的衝突の可能性はいっそう強まっ
た」とされる(『王政復古への道』<原口清著作集2>、75ページ、岩田書院)。
妥当だといえる。

 長州軍の進軍がはじまった。6月15日、来島又兵衛が遊撃軍を率いて山口
を先発する。同日、真木和泉と久坂義助が忠勇・集義・八幡・義勇・宣徳・尚
義などの諸隊をひきいて三田尻を出発した。翌16日、家老福原越後も兵三百
を率いて出発した。福原の名目は江戸行きである。

 6月23日、大坂に到着していた福原越後は、兵を率いて同地を発し、翌日
伏見に入った。24日明け方、真木和泉・久坂義助らも同じく大坂を発し、そ
の日のうちに山城国乙訓郡山崎の天王山・宝積寺・観音寺などに布陣した。

 6月26日、長州屋敷などに潜伏していた浪士約百名が脱走し、嵯峨天龍寺
に入った。このなかに池田屋からの脱出に成功した淵上郁太郎らもいた (同
年7月10日付父宛淵上郁太郎書翰。岩崎光ほか編『淵上兄弟』47ページ、筑
後郷土史研究会)。

 これに応じて、翌27日、福原越後が天龍寺の浪士鎮撫の名目で、来島又兵
衛を遊撃軍とともに派遣した。これが長州軍の入京と誤解され京都は騒然とな
った。宮門は閉鎖され、諸大名の兵は各所を固めた。病中にあった京都守護職
会津侯松平容保が、関白二条斉敬の許可で内裏勝手口から武家玄関拭板(ぬぐ
いいた)上まで乗輿し、あとで大問題になるのはこのときのことである。

 ただし長州勢は合戦を行うためにやって来たのではない。嘆願のためにきた
のだ。真木らは天王山布陣ののち、老中稲葉正邦をたより、三条実美ら五卿お
よび君公毛利慶親父子の冤罪を訴えて、その入京を許されることを朝廷や京都
の徳川政府に嘆願している。その後も、やむなく決戦となる7月18日まで種々
嘆願を継続する。

 もちろん多くの軍勢を率いているのは、公家などを脅迫するためではある。
とはいえ、前年の八月十八日政変のおりに長州勢が使用した、洛東妙法院には
布陣していないことは注目してよい。この地域は当時「大仏」とよばれ、妙法
院を中心に、方広寺大仏殿や三十三間堂(蓮華王院本堂)、智積院、法住寺、
養源院なども囲い込む、四門を擁す築地に囲まれた要害であった。鴨川から東
山にむかって若干の勾配をもち、洛中を見下ろすことができた。

 今回、その地に長州勢は布陣せず、洛中洛外の境界線たる御土居(おどい)
堀から6〜12キロメートルはなれた伏見や乙訓地域に在陣した。久坂義助は
「天龍寺(を)御本陣、大徳寺・妙心寺等を以て御下陣とす。大仏は関門内に
付、粗暴に押入候ては却て人心取失ひ可申事」とのべている(「世子進発論に
関する意見書の要領」、元治元年5月2日条、福本義亮『久坂玄瑞全集』539
ページ、マツノ書店)。大仏は「関門内」だから布陣するとかえって悪影響だ
と知っていたからである(「関門内」とは洛中と同一ではないが、それに近い
境界意識か)。当初から合戦におよぶつもりなら、こんな遠慮はしない。見落
としてはならない点である。こうして半月ほど京都市中と近郊の広い範囲が臨
戦状態となった。

 そのさなか、六角牢屋敷に入獄していた池田屋事件などの逮捕者たちは、
日々追及をうけていた。7月4日、大高忠兵衛が獄死した。洛東安祥院の過去
帳と墓碑銘で死亡日がわかるていどで(釣洋一『新選組再掘記』82〜83ペー
ジ、新人物往来社、1972年)、その死状がいかなるものであったかはまったく
わからない。大高には妻子がいた。妻はなか、倅は種次郎といった(「村井修
理少進外十三名霊山於テ招魂祭執行附遺族等救助手当処分」、「太政類典」明
治元年12月17日条、国立公文書館デジタルアーカイブ)。それが遺体を引き
とって安祥院に埋葬したのだろうか。

 7月13日には、池田屋の主人惣兵衛が獄死した。のち遺族が書き留めた記
録のひとつ、1876年(明治9)9月、長男入江重三郎が、京都府権知事槇村
正直宛てに提出した「亡池田屋惣兵衛履歴書」(「贈位内申書」、2A-40-6-贈位
179、国立公文書館蔵)によれば、

  (前略)獄舎ニ在テ熱病相煩ヒ、竟ニ七月十三日牢死仕候由ヲ以、翌十四
  日七ツ時頃町役人並ニ母(惣兵衛ノ妻ヲ云)被召出、亡父死骸下付セラレ
  候(後略)

  (前略)獄中で熱病を患い、ついに7月13日牢死したということで、翌
  14日七ツ時ごろ(4時ごろ、午前か)、町役人と母(惣兵衛妻まさ)が召
  出され、亡父の死骸を渡されました(後略)

 死亡理由を「熱病」と聞かされたとあるも、その実態は記していない。1876
年(明治9)のこの段階でも、徳川政府への遠慮があったのであろうか。事実
を記したのは、それから20年以上も過ぎてからのことである。

  1899年(明治32)10月5日付、池田屋惣兵衛の次男宗治郎と次女コウが、
内務大臣西郷従道に宛てた、政府への「応分の元資」の「恩賜」を求めた請願
書に、元下婢ウノの回想として、拷問によって殺害されたことを明記している
(京都維新を語る会・大西荘三郎氏より史料の提供をうけた)。表現に問題が
ないではないが、当時の様子を示す貴重なものなので、長文であるが紹介する。
  
  一、惣兵衛ハ日夜獄ニ繋カレ(シ欠か)事ノ顛末、及桂小五郎其他諸名士
    ノ行衛(ゆくえ)ニ付実ニ無惨ナル拷問ヲ受ケ居リシ趣ニテ、其叫喚
    ノ声ハ同獄舎ニ繋カレ居リシ下男彦兵衛ノ耳ニ入リ、彦兵衛ハ之ヲ聴
    ク毎ニ五体モ裂ケン斗(ばか)リノ思ヲ為シ居リシト云フ事ヲ、彦兵
    衛出獄後ニ申居リシ由(彦兵衛ノ入獄ハ百五十日間)、主従ノ間殊ニ
    彦兵衛ノ如キ十数年間家ニ奉仕シ居リシ者ノ如キニ至ッテハ、理当ニ
    然ルヘキ筈ナリ、然シテ獄内侭惣兵衛ヲ瞥見セシ事アルニ、実ニ顔色
    蒼然皮膚骨立、今日迄ノ主人ガ一朝ノ変ニ斯ル浅間シキ姿ニ立至ラレ
    シカト思ヘハ実ニ涙尽キテ血出ルノ思アリシト云ヒ終ッテ歔啼流涕
     (きょていりゅうてい)シ居リシト云フ事ヲ、当時ノ活歴史即今猶ホ
    生存シ居ル老下婢「ウノ」ノ口ヨリ嗚咽涙ト共ニ語ルヲ聞ケハ、苟
     (いやしく)モ血アリ涙アル者誰カ悽愴(せいそう)悲憤ノ情ヲ喚起
    セサランヤ。
     (略)
  一、年ノ七月十四日町役所ヨリ惣兵衛ヲ渡スニヨリ受取ニ来レトノ伝命ア
     リシニ付家内ノ者ハ実ニ懽喜(かんき)度ナク、近キ親戚ノ者ヲ招キ
    右ノ赴(おもむき)ヲ告ケ、先ツ神明ニ礼謝セサル可ラストテ直ニ灯
    明ヲ○(手へん+擧)ケ、妻「まさ」ハ斎戒沐浴シテ雀躍歩武ヲ移ス
    ヲ知ラス、西役所ニ出頭シテ今カ今カト恩命ヲ待チ居リシ処、須叟
    (ママ)ニシテ獄者ヨリ荒薦(あらごも)ニ巻キ縄ニテ緊縛シタル物
    ヲ投(?)出シ、「ソレ惣兵衛ヲ引渡ス、受取レト」ノ事ナリシニ付、
    「まさ」ハ之ヲ見テ惣兵衛ハ已ニ不帰ノ客トナリタルヲ悟リタル者ニ
    ヤ、卒然其場ニ昏倒セシ赴、之ニ反シテ池田屋方ニ於テハ今ヤ帰来ト
    鶴首待チ居リシ処へ輿丁(よてい)ハ二挺ノ駕ヲ舁(か)キ入レタリ、
    親戚及「ウノ」等駈集リ輿窓ヲ開キテ見レハ、箇ハ抑モ如何ニ一挺ハ
    薦巻キト一挺ハ「まさ」なり、「まさ」ニ就テ始終ヲ尋ネントスルモ
    「まさ」ハ悄然殆ント人事不省ノ有様ナレハ、各自初メテ惣兵衛ノ死
    屍ナル事ヲ覚知シ、(略)彼ノ索ヲ解キ薦ヲ展ヘシ処、憐務(あわれ
    む)ヘシ惣兵衛ハ局部モ蔽ハス真ニ裸体ノ侭ニテ、総身紫褐色ヲ帯ヒ、
    膝部・臀部ニ非常ノ打撲傷アリテ、且ツ全身骨ト皮トノミ、僅々(き
    んきん)三十有余日ノ入獄ニ斯ル変状ヲ呈シ居ルハ如何ニ宗(ママ)
    兵衛カ無惨ノ糺明ニ逢遭セシカヲ推知スルニ足ルト各自声ヲ呑ンテ当
    時私語シタリシト云ヒ居レリ、宗(ママ)兵衛死体ハ内々ニテ下立売
    七本松西入浄円寺ヘ殯○(ひんれん)セリ
 
 池田屋惣兵衛の死状についてはふかく立ち入らない。ともに逮捕され150日
間勾留されていたという「下男彦兵衛」について述べておく。これまで紹介し
た種々の逮捕者リストに、まったく「下男彦兵衛」は見いだせない。

 しかし明治元年12月(1869年)、国事被害者とその遺族に生活支援の給付
を記した文書に、池田屋宗(ママ)兵衛とともに「手代彦兵衛」の名がある。
「数月投獄」ののちに難渋したことに対して「玄米二俵」を下付されたとある
 (前掲「村井修理少進外十三名霊山於テ招魂祭執行附遺族等救助手当処
分」)。だから事実である。

 そこで想起されるのが、同じく種々のリストに名のあった「池田屋惣兵衛
弟」の彦助(37歳)である(たとえば『官武通紀』第2、255ページ)。管見
ではこの彦助がその後どうなったかを知る記録はなく、また彼が正しく池田屋
惣兵衛の弟であることを裏付けたものも知らない。現在のところ、「池田屋惣
兵衛弟」彦助は誤りで、逮捕・勾留されたのは十数年間池田屋惣兵衛に仕えた
手代彦兵衛だと理解しておきたい。

 前述の浄円寺には、慶応元年8月(1865年)建立と刻まれた池田屋惣兵衛
家族の墓碑一基が残る。そこには「入江氏」とあり、惣兵衛の戒名が「照誉光
善信士」とわかる。同寺の過去帳に、同じ戒名の人物として「七月十三日、笹
屋重助事」がある(釣洋一『新選組再掘記』78ページ、新人物往来社)。事件
後、池田屋惣兵衛の子孫が笹屋を名乗ったことが知られるので(『鴨の流れ』
14号、48ページ、京都維新を語る会、2006年)、これが惣兵衛のことと理解
してよかろう。池田屋や惣兵衛の来歴については、大西荘三郎「池田屋惣兵衛
始末記」に詳しい(前掲『鴨の流れ』14号)。

 元治元年7月18日、中立を守っていた禁裏守衛総督一橋慶喜が、長州勢の
排除を決めた。同日深夜、孝明天皇が長州追討の勅命を下したからである。一
橋が、孤立していた会津・桑名と手を結んだ瞬間である。このときを「一会桑
権力」の成立とすべきであろう(町田明広氏の教示)。

 ふるく宮地正人氏は池田屋事件をもって一会桑権力確立と位置づけられてい
る(「幕末過渡期国家論」佐藤誠朗・河内八郎編『幕藩制国家の崩壊』、118ペ
ージ、有斐閣、1981年)。これに対し原口清氏は、会津松平家が京都守護職に
再任を受諾した元治元年4月を同権力成立と認識しておられる(同『王政復古
への道』44ページ、岩田書院、2007年)。が、池田屋事件以後も一橋慶喜はけ
っして会津・桑名と足並みをそろえていない。おそらく家近良樹氏の説ともっ
とも近いと思うのだが、なぜか家近さんは禁門の変ののち成立したとされる
(『孝明天皇と「一会桑」』、102ページ、文藝春秋、2002年)。どうして禁門
の変を含まれないのかがよくわからない。

 なお高橋秀直氏は時期を大きく下られて、慶応元年(1865)9月とされるが、
その根拠を示しておられないのでよくわからない(『幕末維新の政治と天皇』、
19ページ、吉川弘文館、2007年)。僕は現段階において、禁門の変直前こそ一
会桑権力成立というにふさわしいと思っている。

 ここで長州勢は撤兵するという道がありえたのに、議論の結果、京都突入と
なった。同日深夜、天王山の軍勢が動いた。禁門の変のはじまりである。その
詳細にはふれない。

 7月19日、来島又兵衛ら天龍寺からの軍勢が蛤御門付近で敗北し、久坂義
助ら天王山からの軍勢も堺町御門付近で壊滅した。夕刻には決着がついた。そ
れ以前、京都留守居役乃美織江らは河原町長州屋敷に放火し、西本願寺飛雲閣
へ逃れた(「乃美宣在職筆記」、山口県文書館蔵)。京都に火の手があがった。
京都三大大火のひとつ「どんどん焼け」(鉄砲焼け、元治の大火)である。

 最終的にこの火は堀川を超えなかった。だから堀川以西にあった西本願寺は
焼けることなく、飛雲閣をはじめとする江戸初期以来の建造物は現存すること
になった。

 古高俊太郎や内山太郎右衛門、西川耕蔵らが投獄されていた六角牢屋敷は堀
川以西にあった。つまりそこに火は達することはなかったのだが、町奉行所は
危機を感じたらしい。

 7月20日昼八つ(午後2時ごろ)、「擾騒ニ乗し破牢之企ニ組シ、不容易事
共相謀」ったとして、古高俊太郎や内山太郎右衛門ら池田屋事件関係者、大和
天誅組の乱の水郡善之祐、但馬生野の変の平野次郎(国臣)、三条実美の家臣
丹羽出雲守ら三十数名が殺害された(「九条家国事文書写」、「尊攘録探索書」、
など、大日本維新史料稿本データベース、東京大学史料編纂所)。その詳細は
不明である。唯一の生々しい記録が、それを実見していた村井政礼の獄中手記
「縲史」である (高橋貞一謄写『縲史』、私家版、1956年)。ただし他の史料
とくらべると、殺害された者およびその人数に若干の相違がある。個々の遺体
は遺族などに引き渡されなかったらしい。
  
 現在、古高らの遺骨の埋葬地として知られるのは、京都市中京区西大路通下
立売東入ルの竹林寺である。これが正しく埋骨地といえるかを以下に検討して
おく。

 明治前期の京都府職員で、理科学者でもあった明石博高(ひろあきら)は、
平野国臣の生涯にひかれ、その埋葬地調査を行った。のちその経過を回想した
「殉国志士葬骨記」(田中緑紅編著『明治文化と明石博高翁』所収、明石博高
翁顕彰会、1942年、330〜340ページ)によれば、「平野、丹羽等ノ身柄十余
ノ屍」は西刑場に別々に埋め、その他「身分不定ノ浪士・町人・百姓等」はそ
の近傍にまとめて葬ったという(事件当時雑色職にあった五十嵐祐胤の記憶)。

 1877年(明治10)2月、京都府勧業課が化芥所(ごみを肥料として化成す
る場所)を旧西刑場付近の荒れ地に設置することになった。その一隅の荊棘
(いばら)の中の椋(むく)の木の下に盛り上がった地があり、そこが平野国
臣らの遺体埋葬地だという話があった。化芥所当事者の吉井義之は、生野の変
の関係者だったため関心があったのだろう。その提言により、掘り返してみた。
すると数体の骸骨が出土し、ともに埋納されていた名札(「名簽」)に平野の
名が見いだせた。

 さっそく洛東霊山の招魂社に連絡したところ、引き取りをこばまれた (「之
ヲ要セズトノコト」)。そこで同僚などから義捐金を得て、同年3月洛西の竹
林寺に埋骨し、西刑場跡の埋骨地にあった石仏を改葬地の上におさめ、「殉国
志士葬骨霊域」の「榜示・木塔婆」を建てた。これらは吉井義之に任せ、明石
自らは関わらず、同寺に墓参することもせず、その後忘れてしまった。
  
 1909年(明治42)5月になって、明石は平野国臣の埋葬地が不明であると
世間に流布していることを知る。33年もの間、「香華ノ典を欠」き、「注意足
ラズ且ツ周到ナラザリシハ慙愧(ざんき)ニ堪ヘザルヲ」うらみ、再調査を試
みる。

 すでに担当者吉井は物故していたが、幸い当時を記憶していたものがあった
ので、埋葬地が竹林寺だったことを思い出すことができた。しかし当時設置し
た石仏などはすべて失われていて、厳密な埋骨地を特定することは出来なかっ
た。岸孝十郎なる人物がその後も竹林寺を訪問して探墓に尽力したが、発見で
きなかった。

 ところが同年11月、たまたま住職小澤真道が境内に一樹を植えようと地を
掘ると骸骨が出現した。そこで試みに周辺を掘ると多くの「枯骨」が出たので、
信徒や岸孝十郎に連絡、協議して数えてみた。すると「頭蓋骨ノ破片大小十二
個、顎骨上下七個、手脚ノ幹骨合計二百三十個、其他将(まさ)ニ土化セント
スル骨碎許多(あまた)」あった。それゆえこれが明治十年の際の「殉国志士
ノ葬骨ト確定シタ」。これを丁重に処理し二個の陶壺におさめ、もとの位置に
埋めもどし仮に五輪塔と墓標を建てた。

 その後の調査で、明石は殺害直後に西刑場への埋葬に立ち会った松田就正な
る人物の証言をえた。長穴をほって遺体を配列して埋め、その際小島吟次郎
(元雑色)らが瓦片に犠牲者の氏名を朱書し、ひそかに各遺体に添付して埋め
た。その数は十三体ほどだったという。

 また岸孝十郎の調査の結果、竹林寺の近隣に住んでいた上田吉太郎なる大工
職の高齢者が、化芥所設置の際の記憶を残していた。旧西刑場に「法華題目ノ
石塔」があり、それを取り除くと下に板石があり、板石をさらに排除すると下
から豊島石製の櫃があらわれ、中に経巻と鋳像が納められていた。これを取っ
て壊す際、「前部ノ土破壊シ、是ニ一様ニ排列シタル骸骨六七躯顕露(けん
ろ)」した。

 その他にもまだ並列して埋められている様子だったが、これは「殉難志士ノ
遺骸」だという伝承があると聞き、多くの人が恐怖したと回想した。これが吉
井義之の提言のきっかけになったのだろうと明石は推定している。その上で明
石は、松田がいう十三体の遺体というのが、五十嵐祐胤が記憶していた「平野、
丹羽等ノ身柄十余ノ屍」と同一と判断した。

 おそらくこの十三体の遺体が、竹林寺に葬られたものと思われる。竹林寺で
の再発見の際の遺骨が、「頭蓋骨ノ破片大小十二個、顎骨上下七個」で、さほ
ど矛盾しない。とすると「平野、丹羽等ノ身柄十余ノ屍」以外の、「身分不定
ノ浪士・町人・百姓等」の遺骨(つまり約二十人ていど)は発掘されることな
く、西刑場跡に残された可能性が高い。

 明石はなぜか回想の最後に、竹林寺の埋葬者を、
  
  平野・丹羽等ノ身柄十余屍ハ西刑場内別々ニ之ヲ埋メ云々ニ充当スベク、
  明治十年(吉井)義之ノ提言ニ由り竹林寺ニ収葬セルモノハ、右ノ平野・
  丹羽ノ身柄十余名ト身分不定ノ浪士・町人・百姓等其近傍ニ合同シ埋メタ
  リト云ヘルモノトヲ合襍シテ葬リタルモノナリ
    
と記して、「三十三人ノ遺骸在ルモノト知ルベシ」と結論付けたが、「身分不
定ノ浪士・町人・百姓等」と思しき遺骨(つまり約二十人ていど)が見つかっ
た形跡はまったくない。どういうことであろうか。

 限られた史料なので、確実なこととはいえないが、具体的な人名がわかる竹
林寺埋葬者は、平野国臣と丹羽出雲守だけであるので、古高俊太郎や内山太郎
右衛門ら池田屋関係者はいまも西刑場跡の地下に眠っている可能性がある。

 なお同じく六角牢屋敷にいた池田屋事件関係者西川耕蔵や佐伯稜威雄(いず
お)は、このとき斬られなかった。生き残った。

 7月21日、陣所天王山に帰り着いた真木和泉ら十七名が自刃した。このな
かに宮部鼎蔵の弟春蔵がいた。宮部春蔵とともに古高俊太郎(桝屋喜右衛門)
邸に出入りしていたと思われる加屋四郎、北添佶摩(きつま)とともに蝦夷視
察に行った能勢達太郎らもいた(前述)。

 真木・宮部・加屋・能勢らを追撃し、いわば自刃に追い詰めたのが新選組を
ふくむ会津松平家である(家近良樹編『稽徴録』、85ページ、思文閣出版、
1999年)。近藤勇をはじめとする新選組にとって、これは池田屋事件に劣らぬ
意義があった。長州側の総責任者の一人を討ち取ったわけである。

 新選組に対する池田屋事件の8月4日付の感状は有名だが(前述)、その前
日、一橋慶喜から禁門の変の戦功を賞す感状が諸大名家に下った。そのうちに
会津松平家宛のものには、「蛤御門公卿門持場ニおゐて防戦賊兵追対並堺町御
門之救応山崎一手之先登等抜群之働ニ候旨(むね)之御感状御直ニ御渡被成」
と、蛤御門や堺町御門とならんで、山崎(天王山)での働きも「抜群」と評価
されている。そこに新選組が含まれていることは確実である。

 京都の会津屋敷から会津への戦功を伝える文書にも「兼而(かねて)御委任
之新撰組ニも速ニ出張多人数討取候」、「励忠勤候段無比類働神妙」と絶賛さ
れている(同年8月26日付書翰、「大日本維新史料稿本」同年8月3日条、東
京大学史料編纂所データベース)。新選組は池田屋にとどまらず、禁門の変で
も軍功があったわけだ。会津松平家からすればこれほど頼もしい存在はなかろ
う。新選組の評価は抜群に高まったといえる。

 池田屋事件の直前、近藤勇は新選組の解散を請願していた。自身たちを攘夷
を行う「尽忠報国」の士と位置づけていた。将軍を主体とした「摂海」(大坂
湾を中心とした摂津国などの長い海岸線)での攘夷は実行されず、京都の市中
見廻りに配属されるのをよしとしなかった。それを老中酒井雅楽頭忠績(うた
のかみただしげ)が慰留するという状態であった(同年5月3日付上書、平尾
道雄『定本新撰組史録』、新人物往来社、79〜80ページ。同年5月20日付中
島次郎兵衛宛近藤書翰、『多摩のあゆみ』22号、68〜73ページ)。
  
 それが禁門の変のあと変化する。近藤は新選組の解散はもとより、摂海での
攘夷実行も訴えなくなった。明治になってからの回想だが、永倉新八の手記
「浪士文久報国記事」によれば、禁門の変のあと近藤は、攘夷よりまず長州征
討を行うべきだと主張していたという。対外問題(攘夷)は、国内問題(長州
征討)のあとで行うということだ(日野市立新選組のふるさと歴史館叢書第2
輯、第2回特別展『新選組京都の日々』182ページ、2007年)。将軍による攘
夷ができないのは長州毛利家の存在が大きいというのだろう。
  
 もちろん近藤自身も長州征討軍への参加をのぞんだ。京都市中の見廻りに専
従するのではなく、長州攻撃軍へ参加することは近藤のプライドを傷つけなか
ったのだろう。

 が、実現しなかった。一会桑が近藤と新選組を手離さなかった。元治以後、
京都の一会桑権力が、孝明天皇の支持をうけて核のひとつとなり、幕末政局を
左右したことはすでに周知といえよう(たとえば家近良樹『孝明天皇と「一会
桑」』、文藝春秋、2002年)。これを江戸の徳川政府に対して、京都の「孝明新
政府」と評価する研究者もある(後藤致人「『孝明新政府』における新選組の
位置」『歴史読本』2004年3月号)。

 慶応2年(1866)1月の薩長同盟会談において、木戸孝允が記録した薩摩島
津家の履行条項によれば、万一のとき薩摩は武力蜂起を約束している。その攻
撃対象は徳川将軍家ではなく、「橋会桑」(一会桑)だった(『木戸孝允文書』
2、138〜139ぺージ)。薩長にとって政局打開の最前線の敵は一会桑だった。

 その一会桑権力の最重要軍事力こそ新選組だったといえる。たかが百五十名
ていどの兵力というなかれ。大名が数万の軍勢をもっていたというのは、関ヶ
原合戦・大坂役のころである。元和偃武(えんぶ)をへて大名は、家臣団のリ
ストラを行った。豊臣・徳川初期に比して家臣団は極端に減った。たとえば江
戸中期、姫路酒井家は、万一城郭が外敵におそわれたときを想定した。その際
つくられた図が「姫路城防備布陣図」である。それをみると約千人が、城郭や
城下町の各所に配備されている。おもしろいのは「中老退役○(ならびに)隠
居之面々」の文言があることである。リタイヤした者まで数にいれられている
のだ。千人というのは精鋭ではなく、総力だということがわかる(拙著『御土
居堀ものがたり』、102〜104ページ、京都新聞出版センター、2005年)。

 老中をつとめる徳川重臣でこれである。戊辰戦争時の攻城戦の際、おなじく
老中をつとめた越後長岡牧野家では七百名ほどの兵力しかいなかったと考えら
れる。ちなみに京都守護職をつとめた会津松平家では四百〜五百名ていどであ
る(前掲『御土居堀ものがたり』、108〜110ページ)。

 このようにみると、新選組の百五十人は決して少なくない。しかも単なる寄
せ集めではない。軍事的精鋭によって構成されている。そして駐留する地は孝
明天皇と一会桑の存するミヤコである。くわえて局長近藤勇はたんなる剣客で
はない。攘夷や長州征討の正当性を論じられる政治家であった(前掲、松浦玲
『新選組』)。一会桑や尹宮(いんのみや=賀陽宮)が期待するところ大なの
はゆえあることといえる。

 その新選組が元治元年以後も存在し続けるきっかけとなったのが、池田屋事
件に端を発する同年の一連の「京師(けいし)変動」である。くどいが元治元
年の「京師変動」がなければ、新選組は解散してしまっていたかも知れない。

 たんなる新選組英雄譚のひとつとして池田屋事件を語ることには反対だが、
幕末政治史のうえに正しく会津松平家、ひいては新選組を位置付けたとき、そ
の画期となった池田屋事件からはじまる元治元年の「京師変動」ははなはだ大
きな意味をもったといえる。

 翌元治2年2月11日(1865年3月8日)、西川耕蔵(正義)は獄死した。
村井政礼の獄中手記「縲史」によれば病死である。前日2月10日夜、病が重
くなり、「黄昏」(翌日か)のころ村井を呼んで「訣別」した。「同志者」に漢
詩による伝言を依頼したものの、西川の息はあえぐような状態だったので、話
しづらそうだった(「気息喘々言句難弁」)。だから村井は「一句」ごと声をあ
げて記し取った。二〜三句の聞き取りミスがあったが、西川は微笑してうなず
き、少し間をおいて、「私の心中をあなたは知っている。だから充分だ。安心
して死ねる」と述べた(「予毎一句記取朗誦、聞与二三過、正義微笑而頷少間
曰、有心事、公則知焉亦足、以瞑」)。「三更」(午前0時ごろ)、死去した(前
掲『縲史』31〜32ページ)。

 西川の埋葬地は、洛中の裏寺町六角下ル西念寺と考えられている。生前に営
まれていた一家の菩提寺であった。が、その後忘れられた。妻巽愛は早くに死
んでいた(安政5年9月、享年30歳、西念寺墓碑銘・過去帳。過去帳の写し
が京都府庁文書のうち「明治三十九年神社異動」に所載、京都府立総合資料館
歴史資料課蔵)。老母久下静も翌年6月に他界した(享年69歳、同じく西念寺
墓碑銘・過去帳)。

 西川には幼い娘がいた。ぬい(縫)といった。これは西川の元家来(「旧
僕」)だった、醤油・味噌商美濃屋太兵衛(新シ町高辻下ル町)が育てた
 (「行幸啓取調記録」9、1880年、京都府立総合資料館歴史資料課蔵)。西川
の遺体もあるいはこの美濃屋太兵衛が引き取ったのかもしれない。娘ぬいは維
新後まもなくの明治4年(1871)11月29日に死去している(前掲「明治三十
九年神社異動」)。その母(西川の妻)巽愛の死亡が安政5年(1858)である
ので、少なくとも数え14歳までは生きていたことになる。

 なお西川耕蔵の死後も、佐伯稜威雄は獄中で半年ちかく生きたらしい。その
死は慶応元年7月4日とされるが、信用できる史料がない。死状はまったくわ
からない。

 近江新報社社長西川太治郎(1864-1942、のち大津市長、滋賀県大津市在)
が、一族の西川耕蔵にふかい関心をもつのは1901年(明治34)3月上旬であ
る。彼はそれまでその存在を全く知らなかった。ただ少年であった数え14〜
15歳の読書のおり、父より「太七」がいま生きていればおまえの利益になる
ことはたくさんあっただろうにといわれていたことを思い出した。「太七」が
いかなる人物か、いくらかの逸話は聞かされたものの、当時「敬意を表するほ
どの人物なるべしとは思」わなかったという。

  1901年2月、滋賀県東浅井郡教育会によって『東浅井郡志』が刊行された。
その際、立場上太治郎は書評を依頼された。その精読中、郷里「大郷村人物
誌」の項に「西川孝(ママ)蔵」をみいだす。その旧名が「北村太七」とあり
一驚した。これはもしや、幼少期に父から知らされた「太七」と同一人物では
ないか。

 調べたところ同一人とわかる。にわかに関心をもち、洛東霊山招魂社の西川
の供養碑に参拝、招魂社の運営団体である養正社の創始者のひとり谷鉄臣を紹
介され訪問する。谷は西川耕蔵と既知ではなかった。が、招魂祭に遺族代表と
して参拝していた、西川の生業である書肆の本家、文石堂主人北村四郎兵衛の
存在を知らされ、つづいて北村を訪ねる。こういった感じで約1年間、関係者
を訪ねてはゼロから西川耕蔵の情報を蓄積していった。これをその都度、新聞
『近江新報』に連載していった。

 すでに孤児ぬいやその養育者美濃屋太兵衛らは他界していたが、実際に西川
と交流のあった富岡鉄斎や、西川の門人矢野善助、逮捕後の西川宅の自宅の整
理をした中沼清蔵(了三の子)などから回想を得、翌1902年6月、近江新報
社から『西川正義』として刊行された。筆者が尊敬してやまない京都石碑の泰
斗・伊東宗裕さんは、不思議に当書に対して評価が低いが (同氏『京都石碑
探偵』200〜201ページ、光村推古書院、2004年)、西川耕蔵に接した人間た
ちの事件後37年目の談話を書き残した意義は底なしに深いと思う。

 おそらくは西川のこの書が功を奏したのであろう。翌1903年11月、西川耕
蔵に従五位が追贈される。西川太治郎の「驚喜極りな」く、祭典を行うべきと
ころを遠慮して、紀念として改めて西川伝の続編を刊行し(『贈従五位西川耕
蔵伝』)、出身地滋賀県庁のある大津市長等山(ながらやま)腹に「贈従五位
故西川耕蔵君招魂碑」を建立する(1905年8月以後)。あわせて池田屋事件全
般に関心をもち、この間の1904年、『池田屋事変殉難烈士伝』を刊行する。こ
れが「池田屋」を冠した最初の殉難者顕彰書となった。

 この勢いが天に届いたのであろうか、長等山の建碑の直後の1905年10月
29日、ついに西川耕蔵の埋葬地と思われる西念寺を発見する。前述のように、
西川の妻および母の墓碑が建てられていた。あわせて同寺の過去帳の元治2年
3月5日(1865年)のあとに、

  二月十一日 釈頓覚教円信士 西川トモ云フ 北村太助事

とあったからである。さっそく知恩院門主に依頼し「一乗院」の院号を受け、
年末には妻母の墓碑に隣接して「贈従五位故西川耕蔵直純之墓」を建てた。あ
わせて翌1906年6月、同墓を政府に対して官修墳墓とするよう求めた。が、
それは認可されなかった。すでに霊山招魂社の「西川耕蔵正義墓」碑が官修墳
墓とされていたからであろう。

 西川太治郎についで、池田屋事件顕彰に積極的にかかわるのは寺井萬次郎
(1896-1986)である。生家が薪炭商で、四条小橋真町の古高俊太郎(桝屋喜
右衛門)宅がそのまま使用されていた。得意先のひとつだった京都史研究の泰
斗・碓井小三郎に師事し、その推薦で京都市教育会の史蹟調査委員に選ばれる。
同会は大正・昭和両天皇の即位の大礼の際、あわせて約八十基の建碑を行った
ことで知られる。
  
 寺井はそのなかで多数の幕末史蹟碑の推薦を行う。生活環境の影響であろう。
とりわけ池田屋事件について思い入れが深かったようで、「池田屋騒動之址」、
「新選組遺蹟」、「西川耕蔵邸跡」、そして「古高俊太郎邸跡」の四碑を実現さ
せた。京都市教育会の事業において、ひとつの事件で四基の建碑はこれのみで
ある。寺井の関心の深さがうかがえる。西川太治郎が思い入れた西川耕蔵の碑
も富小路三条に建てている。寺井と西川太治郎にどのような交流があったかは
知らない。寺井の先祖も大津町出身である。なんらかの縁があったのかも知れ
ない。

 その寺井に近づき、新選組と接触経験のあった八木為三郎を紹介してもらっ
たのが子母沢寛である。寺井は晩年の回想で、

   「私の家へ大坂の其新聞社に勤め居る梅谷松太郎と云ふ名紙を持て私を尋
  ねて来た。用件を聞くと東北・関東では武張な剣道物が流行で芝居でも著
  書でもチャンバラ物が克く売れる。私しも東京の出版社に入社して新選組
  を書いて見たいと思って京都に新選組に関する御調査はありませんかとの
  事に壬生の八木為三郎さんが新選組に対する第一人者。其昔も自宅を新選
  組に貸して居られ日々新選組の動差を見て居られた(だから喜んで逢って
   くれます早速紹介状を書いて与へた。その後数ヶ月の後ち、子母沢寛と称
  し梅谷松太郎氏が著書銘で」
    
本を送ってきたという。その子母沢寛の新選組の書籍というのが、『新選組始
末記』・『新選組遺聞』などであるとはすでに周知のことであろう(拙著『京
都の江戸時代をあるく』、151ページ、文理閣、2008年)。

  これら西川太治郎、寺井萬次郎、子母沢寛らの作品によって、池田屋事件は
種々未知のことが明らかにされた。が、反面創作もされ誤解も生まれた。戦後
歴史学の幕末史研究は、池田屋事件にほとんど関心をしめさず、西川・寺井・
子母沢らの内容をほとんど無批判に受け入れてきた。
 本連載はその是正を目指してきたものである。それが成功したかどうかは読
者の判断にゆだねるほかはない。(了)
  
*本連載は、現代新書から刊行の予定です。

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│中村武生:歴史地理史学者。1967年生まれ、大阪府出身。佛教大学大学院 
│文学研究科博士課程前期(日本史学)修了。京都女子大学、天理大学の非
│常勤講師や、京都新聞文化センター、京都おこしやす大学、NHK文化セ 
│ンター、よみうり文化センター、中日文化センターなどの講師をつとめ  
│る。NPO法人京都歴史地理同考会理事長。著書に『御土居堀ものがた  
│り』、『中村武生の京都検定日めくりドリル500問』(以上、京都新聞出 
│版センター)、『京都の江戸時代をあるく――秀吉の城から龍馬の寺田屋 
│伝説まで』(文理閣)。                             
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次回は7月15日、配信予定です。
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