講談社メールマガジン
講談社メールマガジン バックナンバー
  現代新書カフェ
■□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□■
□                                 
□        講談社 現代新書カフェ〜090〜                 
□            2011年4月18日                   
□                                 
■□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□■

  ■=============================■
  ‖ 
  ‖         〜〜 メニュー 〜〜                   
  ‖ 《1》4月新刊5点です
  ‖ 《2》好評連載
  ‖   (1)「いつだって大変な時代」 最終回 堀井憲一郎               
   ‖     (2)「本気で考える池田屋事件」第44回 中村武生 
   ‖        
  ■=============================■


  現代新書カフェにようこそ。
  
  今年の桜はいつにも増して、目に鮮やかに映えました。
   (それにしても「自粛」も空気で決まっていく。これもまた私たちの国のかたちです)  
   
  今月の新刊では早速、香山リカさんが震災の話にも触れられていますが、
  今後、さまざまな形で今回の出来事が語られていくことになるでしょう。
  
  もちろんまだまだ、「まとめ」られる状況ではありませんが、
  堀井さんも当カフェの連載で書かれているように、
  「あの人たち(政府も東電も)は私たち」なのです。
  そこからスタートして、何か少しでもプラスにできることはないか、
  そう考えながら現代新書でもいくつかの企画がスタートしています。  
        
  それでは今月刊5点の紹介からはじめさせていただきます。 
    
  
    
*************************************
◆  《1》新書4月新刊5点です  ◆
*************************************
     ◇2099『超解読!はじめてのカント「純粋理性批判」』
                          竹田青嗣 定価819円
 http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=288099
 
                               【担当者挨拶】
 哲学史上に残る書物でありながら、難解すぎて読み進めることができない。
そうした本のエッセンスを、わかりやすく解読する「超解読!」シリーズ。第
二弾は、カントの『純粋理性批判』です。
 近代哲学の最高峰ともいわれる『純粋理性批判』ですが、この本の意義は、
従来の「形而上学」を徹底的に批判、打倒した点にあると、著者の竹田さんは
言います。認識論をめぐる対立(絶対認識主義対懐疑論)を本質的に解明する
ことで、伝統的な形而上学を終焉させ、哲学のテーマを近代の「人間本質論」
へと動かしたのです。
 ヨーロッパの思想・哲学を理解するうえで、欠かすことのできない『純粋理
性批判』。「アンチノミー」や「物自体」、「カテゴリー」などの重要概念を
わかりやすく解説するとともに、ヨーロッパの思想・哲学のまさに要に位置す
る、この書物の意義をわかりやすく解説します。ぜひご一読ください。(JS)
 
・─────────────────────────────────・
     ◇2101『〈不安な時代〉の精神病理』香山リカ 定価777円
 http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=288101

                【担当者挨拶】
 東日本大震災、津波による大被害、原発事故、続く未曾有の出来事は、日
本中に多くの悲しみをもたらした。
 本書は、当初、長期停滞をしたデフレが、人々の元気を奪い、自己を矮小
化してとらえる傾向に警鐘を鳴らす狙いでスタートした。その基底には、日
本人の「私」不在に疑問を呈する意味もあった。
 そして3・11。
 執筆途中で、被災地に向かい、あまりの被害の大きさに、強い虚無感に襲
われた著者の香山リカ氏。
 けれど被災者は、自分の置かれている状況を静かに語りはじめた、と著者
は言う。支え合う心、共存の手応え、時にプライベートの無さに苛立つ気持
ちも。皆が自分の思いを言葉に託して、日本中にメッセージを送る。
 日本を、「私」をあきらめないことを。その姿勢に香山先生は突き動かさ
れ、本書を完成させた。
 そして香山先生自身が「あとがき」で「私」を語る。
「日本再生を超後方から支援する。ヴィジョンもないままに場当たり的に生
きている私にも、こんな目標ができた。これから何年、生きるのかわからな
いが、小石のような礎になりたいと考えている」
 香山先生の「あとがき」に涙した、メイドでした。(メイド岡部)

 
・─────────────────────────────────・  
   ◇2102『宣教師ニコライとその時代』中村健之介 定価998円 
 http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=288102
      
                 【担当者挨拶】  
 ♪花咲き 花散る宵も〜
 懐メロファンならご存じ、愉し都。藤山一郎の「東京ラプソディー」。あの
曲の二番にはこうあります。
 ♪いまもこの胸に この胸に ニコライの鐘も鳴る
 ことほどさように、昭和30年代までは神田駿河台の「ニコライ堂」は東京
名所、ランドマークでした。このロシア正教の大聖堂を建てた高僧ニコライの
日記を読み解く試み、それが本書です。
 幕末の文久元年(1861)7月、25歳の若き司祭ニコライは蝦夷地の箱館に
到着しました。ロシア領事館付き司祭として正教を広めるという遠大な志を抱
いて、この極東の島国にやってきたのです。それから約50年にわたって、彼
は日本人にロシアのキリスト教を伝えるべく奮闘しました。 ロシアに帰ったの
は二回だけ。それも布教の資金を集めるための一時帰国でした。彼はロシアで
は「ヤポンのニコライ」、日本では「ニコライ堂のニコライ」として知られ、多
くの人びとの尊敬を集めました。永眠は明治45年(1912)2月16日。
 その厖大な日記は関東大震災ですべて消失したと信じられてきました。とこ
ろが、日記は震災前にペテルブルグの古文書館に移されており、ずっと眠って
いたのです。そのことをつきとめたのがドストエフスキーの世界的研究者とし
て知られる中村健之介氏でした。1979年のことです。
 中村氏は日記の公刊、および翻訳という大事業に取り組むと同時に、その内
容を一般向けに紹介してきました。それは『聖・日本のニコライの日記』五巻
(ロシア語原文、ギペリオン社)、『宣教師ニコライの全日記』九巻(教文館)、
『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書)に結実しています。
本書は全貌が明らかになった日記全体をふまえた上でのニコライ紹介であ
り、いわば一般向けの決定版です。そこには日本各地の人びとや風景、産物が
克明に記され、他に類のない貴重な記録となっています。さらにロシアへの一
時帰国の際の記述からは、従来知られてこなかったロシア社会の実情も垣間見
ることができます。
 2011年はニコライ来日150 年、来年は没後100年にあたります。この
節目の年に本書が刊行されることはまことに意義あることです。ぜひ多くの
方々に読んでいただきたく思います。(YT)

 
・─────────────────────────────────・
  ◇2103『アイデアを形にして伝える技術』原尻淳一 定価756円
 http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=288103
 
                              【担当者挨拶】
「アイデアがコンスタントに溢れ出る仕組み」は誰でも持てる! 「効率的な
インプット」から「相手に伝わるアウトプット」へ、その刺激を受けて「さらに豊
かなインプット」へ……。そんな「循環システム」をつくろう!
 ビジネス書のイメージを変えたベストセラー『IEDA HACKS !』はじめ
『HACKS !』シリーズ共著者にして凄腕マーケティング・プランナーの著者・
原尻淳一が、インプット&アウトプットの各技術、それらをつなげるシステム
構築について、具体的ノウハウを惜しみなく公開。
 現場調査(一次情報)&本やウェブの情報(二次情報)収集術から、クラウ
ド時代の情報整理術、企画書や章の超具体的な書き方、自分の価値を高めるプ
レゼン上達法まで…。
「個人の能力と価値」がいっそう求められる時代の「新しい仕事の教科書」で
す。  (HK)
          
 
・─────────────────────────────────・ 
    ◇2104『国際共通語としての英語』鳥飼玖美子 定価777円
 http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=288104

                 【担当者挨拶】
 それは「ニューヨーク・シティ・マラソン」にエントリーしようと決めた時
から始まりました。英語をもう一度勉強し直す決意をしたのです。
 大学では英文学を専攻したのに、英語が話せない典型的なタイプです。編集
者という仕事を選んだのも内向的な性格だからです(英語ばかりでなく、日本
語でコミュニケーションを取るのも未だに苦手です)。
 しかし、還暦間近なメイドとしては、これからの時代は英語を話せなくては
世の中の役に立たない(今さらとお笑いください)、と英語再挑戦を胸に秘め、
鳥飼玖美子先生に『国際共通語としての英語』の企画をお願いしました。
 鳥飼先生は、ビジネスなど様々なシーンで英語を話す相手は、たとえばアジ
アに暮らす人など英語を母国語として話すのではなく、英語を地球語・共通語
として捉えている人の方が多いのではと明言します。
 そうした人たちは間違えても、英語をどんどん話されているともおっしゃい
ます(やはり、パソコンと英語は常識なのですね。うー、恥ずかしい)。
 これから新たに語学を身につけるのなら、中国語の方がいいくらい、とも笑
顔で付け加えられました。
 中国語も確かに少し理解できるようになるといいのですが、たかが、英語、
されど、英語。
 そもそも英語を話す心得は何、英語はどのくらい話が通じればいいのか、と
素朴な疑問を先生にぶつけつつ本を校了いたしました。
 この本を担当して良かったことは、ニューヨークに行き、間違えても英語を
話し続けられたことです。
 この本が私のように「今さら英語」という学習者の励みになってくれればい
いと、切に願うメイドです。(メイド岡部)
 

・─────────────────────────────────・ 


*************************************
◆  《2》好評!! 連載企画   ◆
*************************************

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆ 
   ◆(1)『いつだって大変な時代』最終回           ◆ 
   ◆  「だから、いつだってふつうの時代」          ◆
   ◆                 堀井憲一郎         ◆
   ◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  

 速読、というものがある。
 本を早く読むことだ。必要に駆られると、私もよくやる。
 これが速読術、となると、様子が変わってくる。1冊の本を8分とか10分で読
む、という技となり、人から伝授されるものとなり、金を払ってでもその技を
身につけたいという人が出てくる分野になってくる。おそらく、あまり本を読
むのが好きではなく、それでいて読まなければいけないという強迫観念の強い
人が身につけたがってるのだとおもう。

 ラジオで「今日は何の日」のコーナーをやっていたとき、途中から、なぜか
その歴史的現場に私は立ち会っていたという設定に変わっていって(もちろん
自分で変えたのだけど)、ワーテルローの戦いでも、アルキメデスが風呂から
裸で飛び出した瞬間も、秀吉の醍醐の花見でも、私はそこにいて目撃していた
という体で話をしていたために、その現場での具体的情報が書かれた書籍資料
を読むしかなくて、事前に関係資料図書を図書館から数冊借りていた。けれど、
事前に読み込む余裕もなければ気持ちもなかったために、いつも当日、ラジオ
出演の2時間くらい前から資料本を読み始め、電車移動中も読み、本番直前
まで目を通していてそれを基本暗記して、そのまま本番に臨んでいた。
   生放送のラジオはその時間のその瞬間までに頭に入ってる情報がすべてだか
ら、じっくりと本を読んでいることはできずにすべての本にざっと目を通して、使え
るところだけをゆっくり読んで、関係ないところはすっとばして読んでいく、という
ことを、毎週毎週毎週やり続けていたものだから、妙な技術が身についた。
関係資料本を5冊でも8冊でも積んでもらえば、1時間あれば、必要なところだけ
を一挙に抜き出せるという技術で、おそらくこれが世に言う“速読術”なるものと
近いんだとおもう。
   この場合、とても必要なことはアウトプット先が明確に見えてることで、つまり、
この8冊の本の中からどの部分を抜き出すのかという目的と意識がしっかり持
てているということで、それさえあれば、あとは切羽詰まり感(どうしても譲って
もらえない締めきり、もしくは、絶対に延ばしてもらえない制限時間)さえあれば、
どんどんと頭に入ってくるわけである。ただ、断片でしか頭に入ってこない。この
場合は、本に書かれていたことを読み取るわけではなく、私が必要な部分だけ
を強引にもぎ取ってくるという技術のことになる。必要がないのにわざわざ身に
つけたところで、何かが得られる特別なスキルだともおもえない。
 
 このあいだ、同年代の友人と話していたら、彼は小説を速読しようとして何度も
挑戦したけどうまくいかないが、どうすればいいだろう、と聞いてきた。
  ちょっと驚いた。
 アドバイスはもちろんひとこと、あきらめろ。
 小説を速読しようとしてるおじさんがいることが驚きだった。
 文章を書かない人にはそういう人が多いのだろうか。
 文章は、特に小説のような文章は、情報化できない。つまり速読できない。
 トルストイの『アンナ・カレーニナ』という小説から19世紀のロシアの
「馬車」についてだけ引っ張ってきたいのなら、それは速読はできる。自分の
利用のため、必要な部分だけは持って来られる。でも、それで小説を読んだこ
とにはならない。小説というのが、何かストーリーがあって、それを追ってい
くだけで小説を読んだことになる、と考えてる人がふつうの大人になってもけ
っこういるんだということが、文章家としては驚きだった。

  小説は速読できない。
 小説を速読しても、小説を読んだ意味はない。
 たとえば映画『七人の侍』を、あれは3時間を超える映画だけれど、早送
りに早送りをして、12分で見たとしても、それは見たことにならない。しかも、
その見方だと、一番有名なシーンや、肝心のシーンをすべて飛ばしてしまう
可能性がある。あらすじを適当に把握できたうえに、ふつうに見た人なら語
れるあのシーンのこと、などが一切語れない。それで、何かを見たことになる
かといえば、ならない。映画を早送りして見ても、小説を速読しても、何もな
らない。
 もとの小説なり映画なりをきちんと読んだ人が再編集して、4分の1のサイズに
縮めたものなら、まだ何かしらのもとの香りが残ってる可能性はある。編集を
する場合、すべてを同じように縮めるのではなく、ある部分はもとのままに残し
て、ある部分はばっさりカットするしかないわけで、その取捨選択が編集する
能力なんですが、そういう方向だったら、もとのお話のもってる力をいくぶんか
伝えることは可能だろうけれど、速読や早送りでは何も残らない。

    ここにあるのは、ひとつは物語でさえも、簡単に情報化できるんではないか、
と いうおもいこみである。でなければ小説を速読しようとはしないはずだ。ま
た、物語は常に新しい驚きを自分たちにもたらしてくれるのではないかという、
大きな勘違いもそこにある。その勘違いは、ついには「ネタバレ禁止」という
用語を生みだし、あらゆる物語はすべての人の初めて読む驚きをもっとも大事
にしなければいけないという、大きく間違った考えを誘導することになる。そして
映画館は、映画の途中からの入場を認めなくなる。すべての映画は、監督の
意志のとおりに見なければいけないように善導される。
  もとより、すべての物語は広くみんなに開示されており、どこからでも人は
物語に入れるし、どの物語でも人は語ってよいのである。
 小説に個性があるとすると、その物語にはなく、身体性にある。その文字と
文章の連続性を自分のものとして読み続けることによってのみ動いてくる「頭
の中のリアルな身体性」にしか小説の存在価値はない。
   ストーリーは常に借り物である。小説家はふつう意識的にせよ無意識にせよ、
そのことを自覚しているはずである。小説の本質はストーリーにはない。小説
はすぐれて身体的存在であり、小説を読むということは、きわめて身体的な行
動なのだ。カラダは動かしてないけどさ。そのかわり脳はたくさん動いてる。
それを、その身体性を除いて情報化し、その情報部分だけを手に入れようと
したところで、出し殻を集めてるようなことになる。鰹節を削って出汁を取れ
と言われた物知らずは、ざるにいっぱいになった出し殻を、これが出汁だと持
ってきて、料理番に怒られるのだけれど、出汁はどうしたときかれて、あの湯
がいるのか、もったいないとおもったから洗濯に使ったと答える。小説の速読
は、その鰹節の出し殻を大事にいろんなところに仕舞ってるように見える。
 
 何だって情報化できるんではないか、というのが大きな勘違いである。
 いろんな情報を一挙に手に入れたところで、結局ディレクターによって編集
されないと、何の意味も持たない。
 台風や、梅雨入りや、もしくは、お花見情報などは、きわめて画一的に捉え
て、全国に一斉に正しい情報として流せるのは、そこにはもう身体性が宿って
ないからである。べつに、あってもなかってもいいし、梅雨入りや満開情報は、
季節を感じさせる情報として処理してるばかりである。台風にしたって何かし
らの生命財産を失う危機のある人以外は、やはり身体性のない情報であり、だ
からどう見ても危険がないのに人が街から消えたりする。情報の伝わる速度と、
その身体性の欠如が、いまわれわれがすごいとおもってる高度情報化社会の幻
想を作り上げてるわけだけど、でも、そんなにたいしたものじゃない。江戸の
神田の連中が文化文政のころに遊んでいた社会と、違う社会ではあるけれど、
どっちもどっちだというレベルの違いでしかない。

 3月の震災のおり、携帯や、電話はつながらず、ツイッターが有効だった、
という話がいろいろと聞かれるが、それははっきりいって3月11日の午後3
時から数時間のあいだの話であって、そのときおもいだしたのは1995年1月
17日の阪神大震災のおりには、携帯電話がすごく有効だったという話である。
その年の夏に私は携帯電話を買ったが、そのときでまだ1台9万円もするも
ので、だから、持ってる人は少なかった。都市生活者をざっと見廻して、95
年の1月時点で携帯電話の所持者はおそらく5人に1人いるかいないか、と
いうところだったとおもう。そういう時は携帯電話はよくつながった。
 ちなみに今回の震災のおりに、ツイッターが有効だったというのは、これは
別に地震を避けられたとか、津波被害をまぬがれることができた、ということ
ではまったくなくて、携帯が不通だった時間帯にツイッターはつながって、生
存確認ができた、ということでしかない。遠くにいてもつながる手段において、
ツイッターは有効だったのだろうけれど、そのあとの風評被害やら、デマゴー
グやら、善意による情報の混乱やらにもずいぶんと使われたわけで、だから、
有効だったのは、最初の「ツイッターの向こうにいる人の身体性損傷のなさの
確認」だけでしかなかったわけです。
  身体性を持った、というか、この場合は身体存在そのものの情報のみ有効で、
そのあとの頭の中の情報は、まあ、まじめに付き合ってるとなかなか大変な情
報ばかりが飛び交い、江戸の神田の職人連中から、何やってんだこいつらは、
と笑われてもおかしくないレベルのやりとりしかやってない。
  江戸の連中から笑われるとしたら、そんなことはひとつ町内でやってりゃす
む話のやりとりを、機械と時間を掛けて大掛かりに広くいろんな連中を引き込
んで結局同じやりとりをやってるばかりでバカじゃないのか、ということだろ
う。まあ、職人連中の言葉を借りるなら、嘘つきや、大層がり屋や、物識り顔
で話すやつや、ほら吹き、お先棒担ぎ、醒めた話しかしない男なんかがいるん
だったら、うちと隣町内かけまわればみんな集まるぜ、そんな機械なんか使わ
なくてもすむぜ、という気分での話で、なんかわれわれはどこにもやってきて
ないし、何も特別なことはない、という話でしかない。
 
 いま、学生とラーメン店をまわって、それぞれの店の味やら店内の雰囲気や
らをレポートしてもらってまとめてる最中なのだけれど、レポートを書かせる
と、物書きの資質がわかっていいですね。
 ラーメン店レポートを書かせて、優秀な連中は、きちんと、自分の感想を書
く。自分がどうおもったかを書く。それが文章を書き慣れてないやつは、つま
りは、人へ話をしなれていないやつは、店の外観やらラーメンの具やら、質感
やらスープの種類は書くのだけれど、そこで終わってしまっている。そのレポ
ートを見たときに、まず、私が聞き直さなければいけないのは「で、おまえ、
うまかったのか、どうなんだよ」という根本的な質問である。それを問い質す
と、本人は「え、おれ個人の意見になってしまうんですけど、そんなこと書い
ていいんですか」と聞いてくる。ある意味、個人の感想はあまり表だって言う
べきではないという、日本人的訓練がきっちりとなされていると見ることがで
きるし、また、自分個人の意見を言ってしまうと、それによって世界が変わる
かもしれないという畏れを抱きすぎである。
  もちろん、世界が変わってしまうかもしれないという畏れを抱いてるのは、
とても正しいことなのではあるが、ラーメンについてレポートする役割を担っ
た時点で、それに対する軽い覚悟が必要だということであるし、個人的感想を
言わないと、他人には何も伝わらないのだ、ということを想像する力が足りな
さすぎである。
  このポイントは、わかってる学生は、最初からわかっていて、クリアしてく
る。できない連中には、かなりきちんと指導しないと、自分の感じていること
を書き表せない。これは、情報は、中空に浮いている客観的存在である、とお
もいこみすぎだ、ともいえる。
  情報であるかぎりは、個人的感情など入っていない、淡々とした数値みたい
なものであるべきであって、そこに個人個人における差異が存在してはいけな
い、少なくとも公的なエリアではそうあるべきだという、ある種のわが国での
社会的訓練の成果である。
 でも、情報は、つねに人間が発するものであるかぎり、その人が立ってる地
平から自由にはなれない。情報を単純化して、一元化したところで、何も役に
立たない。例を出せば、原発問題についての正しい解をひとつだけ求めて、そ
れに従おうとしたところで、何も引き出せない、ということだ。

 情報は、常に、どういう立場で、どういう採取をして、どういう方向で発し
てるかという付随情報を一緒に開示することによってのみ生きてくるわけで、
使える情報とは、情報発信者の個人的な気持ちが自覚して入っていること、で
ある。
 客観的立場に立って発言することが礼儀である、という刷り込みがわが国で
はなされていて、これはあくまで礼儀とかエチケットとかルールでしかないの
だけれど、この場合の発言主体は、社会全体の空気になりかわって申しますが、
ということで、これは、時代と関係なく貫かれている発言主体だとおもう。

  この、社会になりかわっての立場と、科学的実験における客観的データ採取
というのは、不思議なことに通底していて、それはうちの社会が何も科学的公
明さに満ちていると言ってるわけではなく、また、科学のめざす人間世界の普
遍性と我が国が同じ方向だと言いたいわけでもない。ただ、似てる、というだ
けだ。
  似てるというのは、つまりもとより別の存在だということなんだけれど、う
ちの国では往々にして、この二つの立場が混同されることが多い。社会的圧力
をかけるために自分の意見ではなく社会の空気の代表として何かしらの意見を
通すということと、子供のころに理科の実験で教わった誰が取っても同じデー
タになるべき実験方法、そこに個人的感情が入る余地のない方法は、たまたま
似てるだけであって、混同すべきではない。でも、けっこう混ぜてます。
 
 機械文明的な便利さと、細かく刻んだ情報をたやすく手に入れられるという
部分において、われわれはとても進んだ世界に生きているように錯覚してしま
うが、おちついて考えると、べつにふつうの世界にしか住んでいない、という
ことがわかる。
  別にわれわれは選ばれてはいない。
  ということは、とくに大変な時代に生きてるわけでもなければ、すごく素晴
らしい世界に生きているわけでもない。
  ごくふつうの時代の、ありきたりなエリアに住んでいて、それを、ときどき、
おおすごい、とか、これはひどい、とか、ある種の好き嫌いでモノを判断して
いるにすぎない。好き嫌いは言っちゃだめです、と子供のころ言われたし、そ
のセリフはとても正しく、だからラーメンレポートでも、自分の感想を書くの
はいいが、好き嫌いを強くだしたらそこから急に主観表記になって人がついて
こないから好き嫌いは慎重に書けと指導しているのだけれど、だから自覚され
ていない好き嫌いは情報にならない。
  いまが大変な時代だと言ってるのは、私は食べたことないけれども茄子が嫌
いだと言ってるようなもので、あまり人に伝わる言説ではないということです。
好き嫌いはだめだと親に言われたことがないとすると、それは不幸だとしか言
いようがない。いまからでいいから、好き嫌いは言っちゃだめだ、と唱えてく
ださい。
 いまが大変な時代だとすると、それはいつの時代も大変な時代であって、そ
の中でいまは、キリスト生誕以来2011回目の大変な年だし、神武即位から数
えたら2671回目の大変な時代であって、それはべつにふつうの時代だといえ
ば、ふつうの時代でしかない。そんなにわれわれは選ばれていない。誰も選ん
でないし。
 
 身体性を失った情報ばかりが飛び交う時代だから、いまは大変、というので
あれば、それもいまの特権ではないですね。そんなことはいつだってそうだ。
  江戸の昔だって、かなりの高度情報社会であったし、寛平や延喜のころでも、
そのころの社会については私はさほど詳しくはないのだけれど、宮中とその周
辺においては(宮中がいちばん人がいそうだから使ってるまでです)やはりい
くつもの身体性の欠如した情報が飛び交う社会だったはずである。
 そして、こういうものの考え方というのは、歴史観とか、思考する方法とか
ではなく、もっと動物的な根本のもの、生きていくうえで、何を楽しみに生き
ているのか、という、そういうかなり単純なレベルで人は分かれているだけだ
とおもう。つまり、晴れてるだけで嬉しくなって外に駆け出せる大人であると
か、腹いっぱい飯をくっただけで、半日幸せに暮らせるとか、そういうプラス
の部分と、タフな状況に置かれたときにどう反応するかという鍛えられようの
両面をどう持ってるかによって、モノの考え方が規定されてくる、というだけ
の話です。
  男女が夫婦になって(別に夫婦でなくてもかまいませんけど、つがいになっ
て)暮らすほうがいいのは、多くの場合、晴れてる日に駆け出す明るさと、タ
フさが必要なときに上を向いてがんばりだせる頑丈さとは、一人の人間でもっ
てるより、最小集団単位で両面を持っていればいいからであって、よくできた
夫婦はそういう両面をそれぞれもったつがいになっていますね。落語ではだい
たいそういう夫婦しか出てきませんね。
 べつに、われわれだけが優れて選ばれた存在であるはずがない。それは、頭
がおかしくなっていなければ、すぐに想像がつく。ただ、われわれが生きてる
時代が、大変な時代ではない、と考えるのは、これが意外にむずかしい。それ
は過去は知ってるが、未来を知らないからで、となると、過去と未来という流
れで捉える考え方が、もとより無理がある、ということでしかないですね。
 われわれはつねに現在しか生きられない。現在しか見られない。過去を見て
いるつもりであっても現在の投影でしかなく、特に未来についてなぞ、何も見
られないしリアルに想像できない。現在を生きてるということは、現在を生き
てるとしか言うべきではなく、そこで、ずらして、大変な時代だ、という必要
はない、ということだ。いつだって、いまの状態をそのまま前へ進めようとし
たら、大変に決まってる。大変な時代だとおもえることは、きちんと生きてる
んだな、という証明でしかないのだ。
 さてと、また、新宿に落語でも聞きに行くとするか。(了)

  ※本連載は今夏、現代新書の一冊として刊行予定です。

┌─────────────────────────────────┐
|堀井憲一郎(ほりい・けんいちろう)
| 1958年生まれ。京都市出身。コラムニスト。
|週刊文春にて「ホリイのずんずん調査」を連載中。
|著書に『若者殺しの時代』『落語の国からのぞいてみれば』『落語論』
|(以上、講談社現代新書)、『東京ディズニーリゾート便利帖』(新潮社)、
|『青い空、白い雲、しゅーっという落語』(双葉社)などがある。
|最新刊『江戸の気分』(講談社現代新書)。
└─────────────────────────────────┘ 
・─────────────────────────────────・
    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆ 
    ◆ 2)『本気で考える池田屋事件』第44回              ◆ 
    ◆                              中村武生       ◆ 
    ◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  
 
 池田屋事件関係者のうち、三縁寺の墓碑と埋葬者について特記しておきたい
ことがある。

 明治3年(1870)7月、銘が刻まれた宮部鼎蔵・松田重助連名墓によれば、
同墓はこのとき照幡寛胤(ひろたね=轟武兵衛)が建てたとある。現在その南
となりに、照幡(轟)・宮部の弟子上松巳八(友胤)の墓一基がある。その墓碑
銘によれば、これも照幡寛胤が建立している。

 上松巳八は池田屋事件戦死者ではない。事件前年の文久3年(1863)6月、
宮部や轟ら五十二名とともに細川家の禁闕(きんけつ)守衛(御親兵)のひと
りに選ばれ、上洛した(『改訂肥後藩国事史料』3巻、913ページ)。だが、翌
7月27日、高木元右衛門・青木彦兵衛・萱野嘉右衛門らと「二条家の大夫某」
を襲撃し、重傷を負って斃(たお)れたという(桜山同志会編『殉難十六志士
略伝』151〜152ページ、1918年)。

 その遺体は、同じく墓碑銘によれば、もとは照幡によって浄華院(清浄華院
〈しょうじょうけいん〉、洛中寺町通広小路上ル、浄土宗大本山)に葬られたが、
明治3年7月、三縁寺にある宮部鼎蔵の墓が広いゆえ、その「塋域」(えいいき)
に墓を移したという。

 なお清浄華院は、その塔頭六か寺(戒光院・栄寿院・無量寿院・龍泉院・良
樹院・常行院)が、肥後細川家の御親兵宿舎に定められている (『改訂肥後藩
国事史料』3巻、884ページ、898〜899ページ)。上松巳八は龍泉院に寄宿し、
ここで亡くなった。

 上松の埋葬の経緯について、最近墓碑銘の記述を裏付ける記録のあることを
知った。清浄華院には、寺務を司る僧(「役者」)が元禄2年(1689)から約250
年にわたって書き継いだ日記(「日鑑」)が現存する(『清浄華院―その歴史と遺
宝』130ページ、2011年、同院刊)。その文久3年(1863)7月28日条に、轟
武兵衛・宮部鼎蔵の連名で「病死」した上松巳八の「葬送」を龍泉院に依頼し
た文書が書き写されていたのだ。「病死」とあるのは、憚(はばか)りあって事
実を伏せたのだろう。

 あわせて改葬についての記事も、同じく「日鑑」明治3年(1870)7月10
日条にあった。それによれば、細川家家臣藤村四郎(紫朗、萱野嘉右衛門)が
三縁寺への改葬を願いでている。明治3年7月に改葬したとある三縁寺の上松
墓碑銘と一致したわけだから、同銘の信憑性は高いことがわかる (「清浄華院
日鑑」の閲覧・複写には、大本山清浄華院史料編纂室研究員松田健志さんの配
意を得た)。

 三縁寺の上松墓碑銘には建立年次が刻まれていないが、以上のことから明治
3年7月からほどなく建立されたとみてよい。宮部・松田連名の墓碑銘には、
建立した照幡は「弾正大忠」と冠されているが、上松墓碑銘にはそれがない。
単に「従五位守源朝臣寛胤識」とあるのみである。ゆえに弾正大忠を免ぜられ
た明治3年10月以後の可能性もある。が、上松の改葬がさほど遅れるとも思え
ず、遅くとも京都を離れる以前、明治3年末までには建立されたのではないか。

 すなわち明治3年において、三縁寺には肥後細川家家臣である宮部・松田連
名墓碑および上松墓碑の二基が存在していたのである。

 ところがこの三縁寺の墓碑の存在は忘れられたらしい。「発見」されたのは、
1886年(明治19)7月以前である。熊本県出身の京都府判事(五等属)松村秀
真ほか三名が、三縁寺の「宮部鼎蔵外両名」の「実際ノ墳墓、先般発見」した
という (「京都府庁文書」明20-3、京都府立総合資料館歴史資料課蔵)。この
段階でも宮部・松田、上松の墓碑二基しかなかったことが知れる。しかも「官
費修繕ノ義願出」たというから、かなり荒廃していたのだろう。不思議なこと
である。照幡寛胤が弾正大忠だったとき、松田重助の実弟山田信道は弾正少忠
だった。建碑の7月の約二ヵ月前、4月28日に弾正少忠から江刺県権知事に転
任したとはいえ、知らなかったとは思いにくい(『維新史』附録「明治重職補任」
68ページ)。そもそも上松の改葬にかかわった藤村紫朗も地方官とはいえ要職
にあった。彼らはながく宮部・松田、上松の墓参をしなかったということであ
ろうか(照幡は墓碑建立まもなく辞官し、はやく1873年<明治6>5月、肥後熊
本で病死している)。

 洛東霊山にも、慶応4年(1868)秋までに、宮部や松田らの「招魂之碣」(招
魂碑)が個々建立されていた(『隠玖莵岐集〈おくつきしゅう〉』、菊屋喜兵衛、
1868年)。両人の祭祀は、霊山の志士墳墓を創始した村上都平・歳太郎父子の
霊明神社や、のちに地所を有する東山招魂社(現京都霊山護国神社)などで行
われており、「実際ノ墳墓」がどこであるか意識する必要がなかったのかもしれ
ない。

 松村秀真らが願った官費による三縁寺の墓碑修繕は、1886年(明治19)9月、
政府(内務省)が一旦却下した。そこで翌年6月27日、松村秀真の意をくんで、
府知事北垣国道が再度官費の支出を求めた。そのため同年7月、許可はおりた。
これにより三縁寺の三名の墓(二基)が官修墳墓にふくまれた。ただし霊山の
両人の墓碑は官修墳墓から除かれることになった。

 その4年後の1891年(明治24)、政府による志士贈位活動が開始される。宮
部・松田もそれぞれ正四位・従四位を追贈された。2年後の1893年(明治26)
1月、以前述べた松村巌の「肥後ノ勤王宮部松田二人ノ碑文ニ就テ」が発表さ
れる(『史学普及雑誌』5号)。ここで松村は、松田が逮捕され獄中で死んだに
もかかわらず、同碑銘が池田屋内で戦死し三縁寺に埋葬されたと記す点を問題
視し、大阪府知事(当時)山田信道に対して、なぜ非事実を放置するのか、実
兄松田重助のために墓碑を改刻すべきだと「慫慂(しょうよう)」した。

 その直後の同年4月、山田信道撰文の宮部・松田連名の新碑が建てられた (山
田信道が京都府知事に就任するのは1895年〈明治28〉10月である。建碑当時
は京都府知事ではない。誤解が多いので記しておく)。おそらく松村の一文が契
機になったのだろう。松村が指摘した旧墓碑の誤り、すなわち松田と西川耕蔵
が池田屋内で戦死していないこと、少なくとも西川は三縁寺には埋葬されてい
ないことが是正されているのである。ただし山田は、実兄松田の埋葬地への批
判は受け付けなかった。旧墓碑が記さなかった、洛東真葛原から改葬されたと
述べ、三縁寺が真の埋葬地だとこだわった(既述)。

 なおこのとき旧墓石は破棄されたのだが、どういうわけか新墓碑の下に埋納
している(既述)。再発見されるのは、1979年(昭和54)6月の三縁寺移転の
際である(後述)。だからこの段階で当地には、いまだ二基の墓碑しか存在しな
い。

 三基目が建つのは、1906年(明治39)5月である。「贈正五位大高又次郎君
碑」と刻まれ、大高の長男陸太郎(旧名幸一郎)が建てた。建立の直接の契機
がなにであるかわからない。銘のとおり大高も1891年(明治24)に正五位を
追贈されている。名誉回復がなされたことと無関係ではない。が、ここまで述
べてきたような埋葬事情である。仮に大高の遺体が埋葬されていたとしても、
意識してその直上に碑を建てることは不可能である。いやおそらく大高陸太郎
も父が埋葬されているという確たる自信はなかったのだろう。だから「墓」と
は刻まず、「碑」としている。

 1933年(昭和8)、四基目が建った。吉田稔麿・杉山松介・北副(添)佶摩・
望月亀彌太・石川潤次郎・廣岡浪秀の六名が刻まれている。いずれも政府から
贈位を受けた者である。もちろん埋葬の事実が確認できたからではない。1933
年はちょうど七十回忌にあたる。このときにあたり、これまで墓碑がなかった
長州・土佐出身者のものを建てたということだろう。それゆえ大高同様、「墓」
ではなく「碑」と刻まれた。銘は毛利家史編纂に従事した村田清風の孫にあた
る、数え七十七歳の村田峰(峯)次郎が書した。建立者は三縁寺にほどちかく、
宮部鼎蔵ら肥後関係者と交流のあった、縄手三条下ルの小川亭の女将小川春で
ある(同碑銘)。こうして敗戦をへて、1970年代をむかえる。

 1970年代なかば、京阪電鉄株式会社が、同電車三条駅の至近に位置する三縁
寺に対して、営業上の都合で境内地の譲渡を求めた。三縁寺はこれを受け入れ、
1979年(昭和54)6月、京都市内の左京区岩倉花園町へ移る。その際、池田屋
事件戦死者墳墓も移動する。檀家が希望したことはもちろんだが、三縁寺住職
(当時)勝田良昭さんと親交のあった佛教大学史学科・平祐史教授(当時)が
賛意を示され調査員派遣を約束されたこと、旧官修墳墓とはいえ、国や自治体
から文化財(史跡)に指定されていなかったことも移転を後押しした。

 その際、行われた「発掘調査」成果について、以下検討する。木村幸比古さ
ん(霊山歴史館)は、「仏教大学の調査団と勝田住職が作成した発掘調査報告書」
に依拠して、十三体分の遺骨が出たと述べている(同氏「池田屋での犠牲者」
『歴史と旅』1984年8月号、秋田書店、130〜133ページ)。

 これに対して、勝田住職は十四体説をとっていると木村さんは紹介したが(前
掲誌)、勝田さんは筆者の問いに対して、十六〜十八体と述べている(1985年
9月28日聞き取り。筆者の当時のメモによる)。それぞれの立場・語る時期に
よって見解がちがうようだが、十五名前後というのはおおよそちがいがない。
これを墓碑銘九名(上松巳八をのぞく)よりも多いとして、「池田屋騒動にさら
に一つの謎をつけ加えることとなった」と解される場合があるが(『NHK歴史
への招待』16、33ページ)、人数の是非はともかく、墓碑銘より多い云々は見
当違いな解釈と理解されよう。墓碑銘にある人名は、確実な埋葬者を示したも
のではないことはすでに述べたとおりである。

 そのうえで、この出土遺骨がすべて池田屋事件犠牲者のものといえるかどう
かが問題となる。木村幸比古さんが分析した「仏教大学の調査団と勝田住職が
作成した発掘調査報告書」を検討すべきである。筆者(中村武生)は、改葬の
あった1979年6月当時満11歳で、大阪府守口市に住む小学5年生であった。
当時まだ関心はなく、もちろん情報を得られるはずもなく、現場をみることは
なかった。その翌年以後幕末史に関心をもち、中学生になると霊山歴史館に通
い、主任学芸員(当時)木村幸比古さんに学ばせていただいた。そのさなか刊
行された『歴史と旅』1984年8月号に掲載の同氏の前掲文「池田屋での犠牲者」
を読み、ここまでの経緯を知った(このとき枚方市の高校2年生)。

 まったく偶然なのだが、その二年後、筆者は佛教大学文学部史学科(当時)
に入学を許された。さっそくその「発掘調査報告書」を入手しようとした。が、
なんということか同大学図書館の蔵書目録にそれらしいものが見あたらなかっ
た。図書に関して、困ったら何でも教えてくださった同館司書(当時)の山本
博子さんに尋ねてみた。実は山本さんは、同大学史学科の出身(先輩)で、記
憶に残しておられた。まずその「発掘調査報告書」なるものが同館には存在し
ないことがわかった。発掘を担当した大学の図書館に報告書が所蔵されていな
いとはどういうことであろうか。疑問がわいた。

 さらに山本さんから、発掘を担当されたのが、1979年当時大学院生だった葛
野泰樹さんであったことをおしえていただいた。葛野さんの連絡先は今堀太逸
助教授(当時)がご存じだと指示くださった。そこで今堀先生に尋ねたところ、
葛野さんは当時滋賀県教育委員会勤務と知りえた。

 さすがに面識がないのに連絡するのは気がひけた。お尋ねするのを遠慮して
いたところ、毎年6月4日に行われる三縁寺での殉難者法要の場で、勝田住職
が一枚の図を出してこられた。「京都市三縁寺境内墓地略測図」(以下、
「略測図」)という表題で、出土遺物の概略も併記した手書きの測量図であっ
た。

 直感的に、それが木村幸比古さんの述べた「仏教大学の調査団と勝田住職が
作成した発掘調査報告書」ではないかと感じた。それとは別に、発掘概要を勝
田住職自身が描いた図も一枚存在した(これは釣洋一編『写真集 新選組始末
記』、新人物往来社、1981年、77ページに掲載されている)。この二枚のほか、
発掘成果を記したものはないと勝田住職から聞いた。おそらく木村さんのいう
「報告書」はそのいずれかに間違いないであろう。実は「報告書」ではなく、
また刊本でもなかったのだ。なるほど、だから図書館には入っていなかったの
だ。勝田住職の厚意で、その両方を得ることができた。以下、葛野泰樹さんら
佛教大学考古学関係者が作製した「略測図」の内容を吟味する。

 「略測図」は、二十分の一のスケール(縮尺)で、平面・断面の両方が描かれ
ている。併記事項により、調査期間は1979年(昭和54)6月12日から6月25
日の2週間で、作図は同年6月24日に行われた。6月12日以後、少なくとも
6月19日と、6月21日以後に墓穴を掘り拡げたことがわかる。なぜこの3段
階の発掘を厳密に書き分けたのか、その意味は後述する。合計20の穴が掘られ
た。それぞれの出土物の概要を以下、原文のまま記す。

  1号 陶器片多し、骨出土せず
  2号 骨多し
  3号 太り骨、頭骨出土、板碑で蓋 ※板碑は「寛永」の銘あり
  4号 瓦片、陶片多し
  5号 甕(かめ)棺(大)、頭骨出土
  6号 甕(小)、骨出土
  6号´上部に骨散布、伏見人形出土
  7号 上下2段にわたる瓦積、両方から頭骨出土、上部より銅整(製か)
     品出土
  8号 骨多く、大小2個の頭骨出土
  9号 骨上部散布
  10号 頭骨2個出土
  11号 頭骨1個、骨多く出土
  12号 頭骨1個、骨多く出土
  13号 骨多く、頭骨出土 
  14号 頭骨出土
  15号 骨多し
  16号 骨多し、喉仏1個出土
  17号 骨多し、歯・頭骨出土
  18号 歯・頭骨出土
  19号 骨多し、頭骨出土

 これによれば、20穴から少なくとも頭骨は15個確認されている。1号穴の
ように全く骨が見つからなかったものがあるほか、6号穴や9号穴のように頭
骨は見つからなかったものもあったようである。これらを考慮すると、のべ21
人分の遺体が出土したように読み取れる。

 気になるのはこれだけの出土遺物がありながら、調査期間がわずか2週間で
あることである。実に短い。しかもその間に作図も行ったようであるから、人
骨の詳しい検討をする余裕などなかったはずである。

 これら疑問を解消すべく、しばらくたったのち、思いきって葛野泰樹さんに
電話を差上げて当時の様子を伺った(1996年6月6日午前)。快く対応くださ
った。

 そこでこれが「発掘調査」というようなものではなく、ほとんど平板測量に
すぎず、葛野さんが現場についたときにはすでに三縁寺側によって掘り進めら
れていて、遺骨も出土していたと筆者は知った(ひどい異臭だった由)。そのう
えで実測図を作成し、出土遺物とともに三縁寺へ渡されて終えられたそうであ
る。だから「報告書」といえるものは発刊されていないのである。以下、当時
の様子を推定してみる。

 1979年6月10日(日)、発掘に先立ち、多数の遺族参列のもと墓前で法要が
行われた(木村前掲誌および、大八木洋「三縁寺に眠る池田屋殉難志士の発掘」
『鴨の流れ』6・7合併号、113〜118ページ、1979年8月)。しばらくして発掘
が開始された。それが6月12日のことで、はじめ葛野さんら佛教大学関係者は
立ち会わなかった。勝田住職らが立ち会い、 当初地下1メール20センチあた
りから遺骨が出土し、掘り続けると1メール80センチあたりから再び出土した
という(勝田さんからの聞き取り。前述)。葛野さんたちが現場を訪れたのが正
確に何日のことだったか不明だが、そのさなかであったろう。すでに掘られて
いたのは1号穴〜10号穴だった。当初の発掘で10穴掘られていたことは、6
月16日ごろ現場を見た大八木洋さん(京都維新を語る会)が証言している。「略
測図」によれば、6月21日以後、あらたに墓坑が検出されている。11号穴〜
19号穴である。その墓坑が葛野さんたち参加後の掘削ではなかろうか。上記の
ように、また多くの人骨が出土した。

 これらが池田屋事件関係者の遺骨だと積極的に示すものは何もない。3号穴
から「寛永」銘の板碑が出ているから、江戸前期以後の人物の墳墓といえるだ
けである。6号・7号穴は、宮部・松田墓碑の直下にあたったと、金子健治さ
ん(京都維新を語る会)から聞いた大八木さんは述べるが(前掲大八木文)、遺
物からはそれが両人の遺骨であることを示すものは見つかっていない。

 年代決定など、人骨の詳細を明らかにするには相当の調査期間が必要である
し、人類学研究者などの参加も不可欠だ。寺の移転作業のさなかゆえやむを得
なかったとはいえ、「発掘調査」というにはあまりに不十分であった。これらの
作業でのみ出土人骨が池田屋事件関係者と決めつけることはとうていできない。

 人骨のほとんどが墓碑銘の直下から出土しなかった。それどころか参道下に
納められたものも多く存在した。当然といえば当然だろう。すべて明治以後に
建てられた墓碑である。池田屋戦死者の遺骨がたしかに埋葬されていたとして、
地下のどこにそれが眠っているか、事前に発掘でもしないかぎりその真上に墓
碑を建てることは困難である。ちなみに上松巳八の墓碑の直下からは遺骨が出
たという(5号穴)。これはまったく問題がない。既述のように上松巳八の遺骨
は、明治3年7月以後まもなく、照幡寛胤によって清浄華院から改葬されてい
る。当然人骨を納めた場所を認識しているわけだからその真上に墓碑は建設で
きる。

 当遺骨のほとんどは、池田屋事件に先行して埋葬されたか、あるいは事件後、
官修墳墓として整備がはじまる以前の埋葬者である可能性は否定できない。池
田屋事件とは無関係の者が、何らかの事情で混入したと考えるのが自然だろう。
 もちろんこの20名前後の中の何人かは実際に池田屋内戦死者であろう。その
正確な数はもちろん不明だが、既述したように、まずは信用できる史料情報が
一致する「五人」の埋葬の説を受け入れるのが歴史学の常道だろう。もちろん
池田屋のほか、路傍で戦死した人物も三縁寺に埋葬されている可能性もなくは
ないが、それを記した史料が皆無だということも忘れてはいけない。三縁寺埋
葬者を語った史料はすべて、池田屋屋内戦死者なのである。

 当時、身元不明の国事殉難者を、長州と敵対した勢力が葬ったことの確認で
きる場所は複数あった。たとえば洛東五条の「南無地蔵」や西ノ京の西刑場、
洛中の相国寺などである。禁門の変では長州軍の兵士を討ち取った越前松平家
が、同家菩提寺の上善寺(洛中寺町通鞍馬口)に八つの首級を葬っている。池
田屋事件での路傍戦死者の場合も、討ち取った一橋慶喜、会津・桑名両松平家、
彦根井伊家などがゆかりの寺院に葬った可能性も否定できない。ただ伝承され
なかっただけかもしれない。

 まとめておくと、三縁寺の移転にともない出土した「池田屋事件戦死者墓地」
の遺骨のうち、たしかに事件関係者といえるのは5人のみで、(上松巳八をのぞ
く)それ以外の人物は別の時期の無関係の人物である可能性が高いといえる。
                               (つづく)
 
 ┌────────────────────────────────┐
 │中村武生:歴史地理史学者。1967年生まれ、大阪府出身。佛教大学大学院 
 │文学研究科博士課程前期(日本史学)修了。京都女子大学、天理大学の非
 │常勤講師や、京都新聞文化センター、京都おこしやす大学、NHK文化セ 
 │ンター、よみうり文化センター、中日文化センターなどの講師をつとめ  
 │る。NPO法人京都歴史地理同考会理事長。著書に『御土居堀ものがた  
 │り』、『中村武生の京都検定日めくりドリル500問』(以上、京都新聞出 
 │版センター)、『京都の江戸時代をあるく――秀吉の城から龍馬の寺田屋 
 │伝説まで』(文理閣)。                             
 └────────────────────────────────┘
 
 
  
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

次回は5月10日、配信予定です。
ご意見、ご感想などはingen@kodansha.co.jpまでお願いいたします。

************************************************************
◇問い合わせ先      ingen@kodansha.co.jp
◇配信先の変更・解除   https://mm.kds.jp/kmail/bc/index.html
◇発行者:株式会社講談社 現代新書出版部
◇本メールマガジンの内容の無断転載は禁じます。
【プライバシーポリシー】http://www.kodansha.co.jp/privacy/
************************************************************
カフェ・スタッフ
店長岡本/プロデューサー杉山/幹事榊原/パティシエール島田/
メイド岡部/マスター田中/プロフェッサー横山/プリンセス堀沢/ 
プリンス所澤/ウェイター川治/かるた師能川/薬師宇野 
************************************************************