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  現代新書カフェ
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□        講談社 現代新書カフェ〜087〜          
□            2011年3月9日            
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  ‖         〜〜 メニュー 〜〜 
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  ‖《1》今月の刊行予定
  ‖《2》◆連載企画◆ 
  ‖    (1) 「貨幣と市場――ケインズとハイエクが追求した不安」
  ‖         第8回 ケインズ『一般理論』が見出したこと
  ‖                                         松原隆一郎
  ‖     (2) 「本気で考える池田屋事件」 43回
  ‖                                               中村武生 
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 現代新書カフェにようこそ。

 先日おこなわれた『デフレと超円高』刊行記念講演会に足をお運びいただき
ました方々、ほんとうにありがとうございました。現代新書では、今後もさまざ
まなイベントを催したいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

 今回のメルマガは、今月の刊行予定と、内容充実の連載2本です。

*諸般の事情により、一日遅れての配信となってしまいました。申し訳あり
せん。


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◆《1》今月の刊行予定◆ 
****************************************************** 
 現代新書3月刊行予定6点のラインナップをお伝えします。詳しい内容の紹
介、定価などは3月18日号をご覧ください。

◇池田純一著『ウェブ×ソーシャル×アメリカ――〈全球時代〉の構想力』
◇山竹伸二著『「認められたい」の正体――承認不安の時代』
◇原 武史著『鉄道ひとつばなし3』
◇小宮正安著『モーツァルトを「造った」男――ケッヘルと同時代のウィーン』
◇船山信次著『〈麻薬〉のすべて』
◇井上寿一著『戦前昭和の社会 1926-1945』


****************************************************** 
◆《2》連載企画◆ 
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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆
◆                                       ◆
◆ 1)『貨幣と市場                                   ◆
◆      ――ケインズとハイエクが追求した「不安」      ◆ 
◆   第8回 ケインズ『一般理論』が見出したこと        ◆
◆                          松原隆一郎           ◆ 
◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  

◇スラッファの衝撃とハイエク・ケインズの転向◇
 ハイエクとケインズは、ともに「思考すること」について哲学的に反省しつ
つ、社会については帰納的ないし経験的に理論を構築するという点で共通して
いる。それにもかかわらず彼らの主張が対照的なのは、来歴により注目する現
象や導き出す論理が異なったからだろう。ハイエクの強制貯蓄によって恐慌が
起きるといった主張や社会主義経済の存続不可能性の予言は、第一次大戦後に
オーストリアを襲ったインフレや、その後に大陸を覆ったナチズムといった強
烈な体験にもとづくものであった。
 ケインズについても、諸著作を通読すると、それぞれの著作から単独に受け
る印象とは別に、彼が生きた時代から受け止めたものが何であったのかが伝わ
ってくる。ケインズには『インドの通貨と金融』(1913)以来、保持し続けた
「構え方」とでも言うべきものがある。一つには、戦間期におけるイギリスか
らアメリカへという覇権の移行、中小企業中心の経済から大量生産体制へとい
った生産方式の転換、フローからストックへという資金市場の変質といった、
市場の枠組みが大きく変化するという観察がある。
 二つには、その時期の経済にとって何がもっとも重要なのかを熟考し、それ
に即して理論を構築しようとするところがある。『貨幣改革論』(1923)から
『貨幣論』(1930)に至る時期、インフレこそが最大の悪であり、それを抑え
るためには金本位制に振り回されない管理通貨制と金融政策を用いるべきだと
主張したのが、典型的である。
 三つには、その「もっとも重要」な点に注目しつつ、イギリス経済の安定化
を図ろうとする国益への現実的な配慮がある。アメリカへの覇権の移譲という
避けがたい歴史の流れに目を背け往時の隆盛を夢見て金本位制へ復帰したチャ
ーチルを手ひどく批判した1925年の『チャーチル氏の経済的帰結』など、リア
リストでありナショナリストでもあるケインズの面目躍如といった感がある。
 四つには、金本位制を無謬の前提とはみなさず、イギリスおよび世界にとっ
てありうべき国際通貨制度を構想した。これは初期から晩年まで一貫したテー
マであった。
 最後に、イギリスの衰退や二つの大戦によって大きく世界が推移するさなか
に身を置いたせいか、ケインズには、現実を直視するとともにそれを超える文
明論を展開するところがある。物質的な「豊かさ」が実現された後に何を求め
るべきか、といった議論がそれだ。
 そうした見通しからすれば、ケインズが1930年の『貨幣論』ののち6年をか
けて刊行にこぎ着けた1936年の『雇用・利子および貨幣の一般理論』には、通
常言われるのとは異なる位置づけも可能かと思われる。すなわち、『貨幣論』
および『一般理論』には大量生産方式の採用や所有と経営の分離、利子率がス
トックとしての資産市場で決定されるといった観察が盛り込まれ、さらに『貨
幣論』から『一般理論』へと移行するなかで、物価の決定から数量の決定へと
いう理論面での変革もさることながら、喫緊の課題としてインフレよりも失業
に注目し、それに即して理論を組み立てたという面がある。しかし『一般理論』
は彼の仕事の頂点であるかにみなされるものの、国際通貨制度に論及しない点
では例外的な書である。
 本書が成立するに当たっては、1931年にR.カーンが著し「乗数理論」の出発
点となった「国内投資と失業の関係」が転機となったと言われている。ケイン
ズは大蔵省顧問として多忙な身であり、週末にだけケンブリッジに戻ってカー
ンや若手経済学者たち、いわゆる「ケインズサーカス」と議論を重ねた。そこ
には、「ケインズ伝」の作者でもあり『一般理論』から経済成長論の分野を切
り開いたR.ハロッド、不完全市場分析からポスト・ケインジアンを率いること
となるJ.ロビンソン、国際経済学のJ.ミード、マクロ分配論のN.カルドアとい
った20世紀を代表するきら星のごとき俊秀が集っていた。またハイエクのみな
らずD.ロバートソン、R.G.ホートレーとの論争で磨かれた部分もある。
 だが『貨幣論』からの転換に際しては、P.スラッファの影響に特筆すべきも
のがあると感じる。スラッファは100ページにも満たない主著『商品による商
品の生産』(1960)によりF.ケネーやD.リカードら古典派の復興を図ったとさ
れるイタリア人で、当時のイギリスでは経済学の神髄とされていたマーシャル
理論の矛盾を指摘してケンブリッジを震撼させ、リカード全集の厳正な編者と
なり、L.ウィトゲンシュタインを後期哲学へ向かわせるきっかけを与えた(注
1)ことでも知られる鬼才である。そのスラッファが、ケインズの招きに応じ
てケンブリッジに居を移したのは1927年であった。
 ケンブリッジでのスラッファは、『エコノミック・ジャーナル』誌にハイエ
クへの批判論文Dr. Hayek on money and capitalを書くこととなる。ハイエクは
Money and capital:A replyによってこれに応え、さらにスラッファはA rejoinder
と続けた。1932年の出来事である。
 スラッファは表だってケインズを批判したわけではなく、ハイエクの『価格
と生産』が継承するヴィクセル理論を直接に俎上にのせていた。しかしヴィク
セル理論は、ケインズの『貨幣論』もまた前提として共有するものであった。
ケインズはハイエクからの批判には耳を傾ける素振りを見せなかったが、スラ
ッファのハイエク批判についてはあたかも自分に向けられたものであるかに受
け止め、『一般理論』への転換を図る決定的なヒントを得ている。ハイエクも、
客観的にも記述しうる迂回生産を主軸に据えた景気循環論から主観主義の色合
いが濃い知識論へと転進したが、それもスラッファが商品を材料として商品が
算出される再生産の循環的過程を、投入・産出の技術的連関という客観的な再
生産の構造だけを注視して描いたことに関係があるのかもしれない。とすれば、
スラッファのハイエク批判こそが、1931年の相互の書評では決定的な刻印を与
え合えなかったケインズとハイエクに、転機をもたらしたといえるであろう。
 ハイエクへの批判は今回は措くとして、ケインズがスラッファから受け取っ
たのは次のような問題である。『貨幣論』においてケインズは、物価の変動は
投資が貯蓄と乖離することから生じるとみなした。インフレもデフレも起こさ
ないためには貯蓄と投資を均衡させる必要があるが、それを媒介する唯一の利
子率が自然利子率と呼ばれた。
 またケインズは、中央銀行が市場(貨幣)利子率を操作できると考えている。
中央銀行は手形再割引や公開市場操作、貸付により貨幣を創出するし、信用市
場には利子率とは別に、一定の銀行貨幣量(貸し付けられる預金額)を借り手
に配分する「割り当てという慣習的制度」があった。資産市場は不完全競争状
態であり、中央銀行は独占的決定者として貸付利子率を動かしうるということ
である(注2)。日本でも中央銀行はかつて窓口規制を行っていたし、各銀行
は現在も顧客の選別を行っている。担保を出せばだれでも好きなだけ借りられ
る市場ではないのである。市場利子率を自然利子率に誘導すれば、物価変動は
抑えられることになる。しかもそれは、完全雇用に対応している。
 スラッファは、ケインズ同様に貸付利子率(市場利子率)を操作しうるとみ
なした。けれども違ったのは、自然利子率についての考え方である。貨幣でな
く小麦や原綿といった商品を貸借する市場があるとして、その需給を均衡させ
る利子率を商品利子率(自然利子率)と呼ぶとすると、あるときにすべての市
場で利子率が一致して「単一の利率」が実現したとしても、商品たとえば小麦
の生産量が一時的に増産されれば小麦利子率だけが下がり、全体としての利率
の単一性は崩れる。純粋の商品貸借市場においても、貯蓄と投資を一致させる
ような自然利子率は単一ではなく、市場ごとに多数ありうるのである。
 さらにスラッファは、商品利子率は競争を通じて変化するとみなした。商品
の生産額を市場価格が上回る分が利潤であるが、それは競争によりゼロに近づ
く。このとき利潤は利子に吸収されるから、商品利子率が貨幣利子率ににじり
寄っていく。つまりスラッファは、商品利子率は多数あって、それらは貨幣利
子率という中心に吸い寄せられる傾向をもつとみなしたのである。
 こうした指摘は、ケインズをいたく刺激したようだ。『一般理論』は、次の
ように述べている。

    しかし私は(『貨幣論』において)、……各利子率に対して、その利子
  率が「自然」利子率となるような一つの雇用水準が存在する――経済体系
  がその利子率とその雇用水準のもとで均衡するという意味において――と
  いう事実を見逃していた。……私は当時、ある状態においては、経済体系
  が完全雇用以下の水準のもとで均衡しうるということを理解していなかっ
  たのである。
   私は現在では、以前きわめて有望な考えであるように見えた「自然」利
  子率の概念が、われわれの分析に対してなんらかのきわめて有益な、重要
  な貢献をするものとはもはや考えていない(注3)。

 ここではケインズは、スラッファの主張を受容しているように見受けられる。
つまり、『貨幣論』では投資=貯蓄となるような自然利子率が唯一存在し、そ
れが市場利子率と一致させられれば完全雇用は達成され、物価も安定するとし
ていた。ところが『一般理論』においては、中央銀行が操作する特定の貨幣利
子率に向けて商品(自然)利子率が収斂しており、さらに貨幣利子率ごとに別々
の雇用水準が対応している。そしてそれは、完全雇用であるとは限らない。し
たがって金融政策は、雇用水準を完全雇用に近づけるべく貨幣利子率を操作す
べきだ、というのである。

◇有効需要と貨幣◇
 以上の主張は、φ(N)=D=D1+D2と要約される。「これが雇用の一般理論の
核心である」(注4)。
 ここでDは有効需要である。雇用量Nの関数φ(N)は総供給額であり、個人
消費額D1は国民所得を介して雇用量Nの関数D1(N)であり、新投資D2は資本
の限界効率を反映して利子率の関数D2(i)である。すなわちφ(N)=D1(N)+
D2(i)となる。ここで中央銀行がある水準にiを決めると自動的に投資額が定
まるが、それを除いた総供給に個人消費が達しないならばNは完全雇用より
も低い水準まで下がり、総需要と総供給を均衡させてしまう。そこで中央銀
行が金融緩和によりハイパワードマネーを供給増すると、資産選好との対比
で貨幣利子率が下落→資本の限界効率とのかかわりで投資増→有効需要増→
雇用増という経路をたどることになる。こうしてみると、物価の安定から雇
用水準の決定へという理論の大転換には、なるほどスラッファの後押しが欠
かせなかったと思われる。
 とはいえこのような議論は、それだけで終わればヒックス流のIS=LM分析の
解釈に落とし込むことも可能である。というのも、ここで想定されている経路
は、Mの供給増を受けたLM曲線の右方シフトとIS曲線との交点の右下移動
(利子率上昇、国民所得増=雇用増)という形で理解できてしまうからだ。と
ころがIS=LM分析をさらに物価P、貨幣賃金Wを導入して総需要・総供給分
析に拡張すると、貨幣賃金が下落したときに物価が下がり実質貨幣量が増加、
その後は先の経路をたどって最終的に雇用が増加するとされている。つまりこ
れは景気をよくするには労働組合が賃下げに合意すべきだと言っていることに
なり、非自発的失業は最低賃金法の存在や労働組合が賃下げに抵抗することか
ら生じているというA.C.ピグーの説を支持する議論になってしまう。まさにケ
インズが論破しようとした主張を、みずから正当化してしまったことになるの
である。
 『一般理論』という本が一筋縄でいかないのは、なるほどそのように読める部
分を含みながら、それを遥かに逸脱する視点がしっかりと語られているところ
である。ヒックスの読み方は、いわば『一般理論』から先の数式に関係ある部
分だけを抜き出し、残りには目をつむるというものだったのだ。IS=LM分析は、
経済を描写する方程式体系は、数値のうち一部が与件であり他が従属変数と独
立変数から成るとみなしている。与件(たとえば中央銀行が操作しうる貨幣量
M)を変更したとき、他の変数の均衡値がどのように移動するのかを検討する
ものである(そうした「比較静学」の手法は、P.サムエルソンが確立した)。と
ころがケインズは貨幣賃金の引き下げを論じた第19章に見られるように、賃
金が下がると消費性向と資本の限界効率表、利子率といった与件がどのような
影響を受けるかを考察している。これはある与件が変われば他の与件はどう影
響を受けるのかというように与件間の影響関係に注目するもので、IS=LM分析
の比較静学とは思考法としてまったく別のものである。
 では、貨幣賃金と消費性向、資本の限界効率表、利子率といった与件は、相
互にどのような影響を与え合うものなのか。そのように検討することは、経済
についてIS=LM分析のとは異なる見方を与えるのではないか。
 第8、9章によれば、消費性向には賃金単位の変化や純所得、資本価値の意
外の変化や時差割引率、財政政策の変化、所得水準の期待の変化といった「客
観的要因」とともに不測の偶発事、将来の備え、利子投機の享受、支出の逓増、
独立の意志、投機の運用資金、遺産、そして吝嗇という八項目の「主観的要因」
が挙げられている。スラッファが技術的な投入・産出の連関という客観的要因
だけから経済を描き出そうとしたことからすれば、ケインズはそれを受け止め
ながらも背後では「主観的な要因」なるまったく別次元の論理を準備している
のだといえる。
 ケインズの言う消費性向は貯蓄性向の裏返しで、それは将来をどう考えるか
に依存している。それは主観面において不測の偶発事、将来の備え、投機の運
用資金等が挙げられていることに象徴されている。つまり貯蓄することすなわ
ち貨幣を持つことは、それに将来における不確実性に対処しうる可能性を秘め
ているのである。
 「資本の限界効率」にしても、将来の不確実性にさらされている。ある資本設
備の投資を行ったとして、現在からn年後までの期待収益がQ1,Q2,Q3…
…Qnであるとき、それらを現在価値化した値が購入価格に等しいときの割引
率が、資本の限界効率だとされている。もちろん期待収益は不確定であり、予
測値にすぎない。
 さらに利子率を詳述するのが、「利子と貨幣の基本的性質」と題された第17
章である。ケインズは商品利子率が様々な資産にかんしてどのような性質を帯
びるかを問い、三つの属性があると言っている。
 第一に「なんらかの生産過程を助けたり消費者に用役を提供することによっ
て、それ自身によって測られたqの収益または産出物を生み出す」。第二に「単
なる時間の経過によってなんらかの損耗を蒙ったり、なんらかの費用をともな
う」。これを持越費用cと呼ぶ。そして第三に、「ある期間に資産を自由に処
分しうる力は潜在的な便益あるいは安全性を与えるであろう。その程度は、資
産そのものの初めの価値が等しいとしても、異なった資産について同じではな
い。……この処分しうる力によって与えられる潜在的な便益あるいは安全性(資
産に付随する収益または持越費用を除く)のために、人々が喜んで支払おうと
する額(それ自身によって測られた)をその流動性打歩(liquidity-premium)l
と呼ぼう」と言う。それぞれの商品はq−c+lの自己利子率を有するというの
である。
 具体的には、住宅には貸したときの家賃収入に相当する利益qがあるが、持
越費用と流動性プレミアム(打歩)は無視でき、小麦は保存するのに持越費用c
はかかるが収益と流動性プレミアムを持たず、貨幣はそれじたいと交換される
可能性lの流動性プレミアムを持つが収益と持越費用がない、という例が挙げ
られている。住宅と小麦、貨幣は、それぞれ住宅利子率q、小麦利子率−c、貨
幣利子率lの商品(自己)利子率を有する、というのである。ここで毎年の価
値変化(キャピタル・ゲイン)が住宅と小麦につきaであるとき、資産市場が
均衡しているならば、富の所有者は住宅はa+q、 小麦はa− c、貨幣は lを等し
いものとみなしているはずである。ケインズは第13章「利子率の一般理論」に
おいて「利子率は流動性を手離すことに対する報酬」と定義しているが、これ
は住宅や小麦といった商品の利子率が貨幣利子率すなわち貨幣の流動性の
裏返しであること、a+q=a−c=lが成り立つということだろう。
 このようにケインズは、消費財を購入するとは貨幣を手放す、すなわち不測
の偶発事・将来の備え・投機の運用資金等を失うことであり、設備投資を行う
ことは期待収益を得られるものの、一時期はそれを貨幣に戻せないということ
だと考えている。そして消費や投資を行うのかそれとも予算を貨幣として持ち
続けるのかの選択は、それぞれの商品の自己利子率と貨幣の流動性プレミアム
のいずれが大きいのかによって判断されるということを示している。
 ここで言うq−cは新古典派の利子理論でも取り扱うことができる。ケインズ
の独創は「流動性プレミアム」であろう。これは貨幣との交換のしやすさのこ
とだが、新古典派においては資財ではなく消費するために購入する消費財は、
価格を下げればすべて売れる、すなわち貨幣と交換しにくいなどということは
起こりえない。では「流動性プレミアム」は、将来のいかなる不確実性にかか
わって生じるのであろうか。
 第一は、経験的に容易に売れるとは限らないと分かっているケースである。
ある住宅を担保に借金をしようとするとき、住宅が売買される期待価格を満額
借りることはできない。期待は期待でしかないからで、不確実性は打ち消せな
い。そこで貸す側が物的担保に融資額に見合う価値があるかどうか別途評価し、
その「担保評価額」は、地価や建築費、中古マンション相場、賃料相場、借家
権の有無などを基に割り出されるが、算式はあくまで評価者の主観にもとづい
ている。ある資産が市場で納得をもって売れるか否かは、実際に売れてみるま
で分からないからだ。
 この点にかんしケインズが意識したと思われるのが、「資本の限界効率」の
算出式である。もしn年までの途中にこの資本設備が転売できるとすれば、こ
のような式は成り立たない。ということは、資本の限界効率を計算するという
ときケインズは、暗にこの資本設備がn年間は「売れにくい」と考えているこ
とになる。
 宇沢弘文はこの点も「企業は……固定的な生産要素から成り立っている。機
械設備とか、技術的知識、あるいはマーケティングにかんするノウハウ、技術
者、熟練労働者などという固定的な性格をもった生産要素から構成されている
とき、これらの固定的生産要素については、その調整は瞬時的に行うことはで
きない」(注5)というように、企業が組織であることに由来するとみなして
いる。企業とは生産要素の塊であるが、簡単にバラしたりまとめたりできるよ
うなものではなく、統合されて初めて収益を生み出す有機体である。その一部
たとえば工場は売られたとしても他の企業ですぐに十分な収益を生み出すわけ
ではなく、それだけでは評価通りには「売れにくい」ことになる。
 けれども資産市場が整備されると、企業そのものが物的かつ固定的な資本設
備を用いて生産活動を行っているにもかかわらず、株式の売却は比較的容易で
ある。企業組織にかんしては、20世紀初頭から「所有と経営の分離」が起きて
いたのである。そこですでに投資が行われ現在稼働中の企業についても、価値
評価すなわち「売れやすさ」についての判断が日々更新されるようになる。以
前は企業家個人が資本の限界効率を計算しなければならなかったが、その計算
を市場が行うのである。これは、新規に投資を意思決定しようとする際に、既
存企業を買収した場合の値段と比較するということでもある。こうしてフロー
の新投資財の価値がストックとしての株価の価値に接続されることとなる。
 では、株式や債券については、不確実性から売れにくくなる可能性はないの
だろうか。ここで考えられるのが第二の、消費せず値上がりを待って転売する
ための「投機」のケースである。株式投資の目的がキャピタル・ゲインを得る
ための投機だとすると、短期的な株価の変化に関心を持たねばならなくなり、
そのためには株価を支配する他人の意向に配慮せざるをえなくなる。ここで将
来における不確実性は、他人の意向によって生じている。
 そのうえ20世紀初頭からアメリカでは、株式市場は「玄人筋の投資家」だけ
でなく「素人投資家」にも開放されるようになっていた。しかも素人の動かす
資金は玄人のそれに匹敵するまでになっていた。「ある種の投資物件は、専門
的企業者の真正の期待によるよりもむしろ、株式取引所で取引する人たちの、
株式価格に現われる平均的な期待によって支配される」(注6)ようになった。
株式市場は、玄人の直感だけではなく、素人の気分にも左右されるようになっ
ていたのだ。
 こうした事態を受けてケインズは、投機市場は「投票者が一〇〇枚の写真の
中から最も容貌の美しい六人を選び、その選択が投票者全体の平均的な好みに
最も近かった者に賞品が与えられる」という「美人投票」のようなものになっ
たと述べる。この「美人投票」のゲームでは、それぞれの投票者は自分が最も
美しいと思う写真を選ぶのではない。他の特定の投票者が最も美しいと考える
写真を選ぶのでもない。つまり、一個人の好みを問うているのではない。そう
ではなくて、好みであるか否かはともかくとして、平均的な意見が誰に投票す
るのかを読み解こうとしているというのである。
 玄人筋による専門的な判断にしたところで、投機となれば「美人投票」のゲ
ームに巻き込まれる。株価は平均的な予測にもとづいて形成されるからだ。こ
こで投資家は、技術や嗜好について通暁するだけでなく、素人の群集心理にも
目配りしなければならなくなる。素人が平均値としてa+q−cをどう考えるか
を予測しなければならなくなったのである。ここで、流動性プレミアムが生じ
る理由が登場している。資産価格が上がればこれ以上は上がらないと考える人
が一人また一人と増える。最終的には誰も資産価格の上昇を予想しなくなり、
全員が貨幣と交換しようとするようになる。いわゆる「流動性の罠」の状態で
あるが、このとき住宅は容易には売れなくなり、流動性プレミアムはきわめて
小さなものとなる。逆に資産価格が下がり続けるとき、底を打ったとみなされ
れば今後は上昇のみが予測されるから、流動性プレミアムは大きくなる。
 第三は、将来について確率どころか生じる出来事の種類も不明であるときに、
いかなる確信をもって推論がなされるのかにかかわっている。ケインズは『確
率論』で、人は命題と命題の関係にかかわる「確からしさ」を、帰納的推論を
用いつつ全面的な否でも全面的な是でもない中間で判断しているとした。しか
し第6回でも述べたように、経済現象にかんして世界は斉一的ではない。世界
は時空を通じ単純な性質の有限個の組み合わせとしてはできておらず、そこに
は無限の多様性と複雑性がある。したがって、帰納的推理を駆使しても自然現
象に対するようには確からしさを直覚することはできない。
 このようにケインズは、社会に関しては将来の確からしさは直覚できないと
結論した。だが彼は、そこからただちに人々が将来に不安を抱くとは考えなか
った。というのも、帰納的推論はまるごと放棄されるわけではないからだ。社
会科学で用いられる概念は、たとえば「卵」にしても、味や栄養価を物理的に
測定してではなく、社会で使用される文脈において定義される。物事の意味は、
文脈に応じて多義的でありうる。推論が客観的事実にではなく日常世界の慣行
にかかわるとは、そのことを意味している。
 ケインズは「美人投票」のゲームと化した群集の投機が支配的であるにもか
かわらず、株式市場が存続しうるのは、人々が「現在の事態が無限に持続する
と想定する」という「慣行convention」に従うからだと述べている(注7)。
平均的な予測なるものには根拠がないが、それが現状を維持するという慣行に
もとづくせいで、確実性を帯びたかに見えているのである。逆に言えば、慣行
の確実性に疑いが持たれるようになると、人々は不安を抱き慣行から離脱する
ことになる。
 そうした例として、「構造改革」を通じて将来不安が拡がったことを挙げる
ことができよう。「構造」とは制度や規制、慣行のことであるが、雇用にかん
する長期雇用制にせよ年功賃金制にせよ、金融機関が危機に陥ったときに官庁
が音頭をとって助け合う護送船団方式にせよ、将来が不確実であるときになに
がしか「確からしい」と信じさせるはたらきをする。「構造」は生産要素を流
動化させようと撤廃されたのだが、それは「確からしさ」を奪うことでもあっ
たのだ。効率的な資源配分と不安の蔓延とは、コインの裏表でもある。
 ヒックスのIS=LM分析にせよ、スラッファの影響を受けて定式化されたφ
(N)=D1(N)+D2(i)という有効需要の方程式にせよ、貨幣は後景に退いている。
だが貨幣賃金の引き下げがこうした経済体系にどのように影響するかとなる
と、消費性向や資本の限界効率、利子率といった他の与件が将来の不確実性を
配慮するものであるため、貨幣に注目せざるをえなくなる。消費財も投資財も
貨幣でしか購入できないからであり、貨幣を手放すことはそれだけ不確実性に
対処しうる流動性プレミアムを失うことになるからだ。将来を楽観すれば気楽
に消費や投資がなされて好況になりときにはバブルすら発生するし、逆に悲観
すれば貨幣を抱え込もうとして不況を招き寄せることになる。まさに、「貨幣
の重要性は本質的にはそれが現在と将来とを結ぶ連鎖であることから生ずる」
のである。その意味で市場社会とは、貨幣をめぐる経済体制といえよう。
 IS=LM分析における均衡式を見ていると、貨幣はたんなる資産のひとつで、
債権と選択されるものでしかない。だが貨幣経済においては、取引は必ず財や
資産と貨幣を交換することによって行われる。財が売られ貨幣を得て、それで
資産を買ったりする。しかし貨幣を持つ人が資産も財も買わないならば、そこ
で取引の連鎖は断ち切られる。取引の連鎖、経済の循環は、貨幣という媒介が
退蔵されない限りでしか維持されないのである。非自発的失業は総需要の不足
から生じるというのが『一般理論』前半部の結論だが、後半部を読めばそれは
貨幣の退蔵に由来するとみなされていることが分かる。「いって見れば、人々
が月を欲するために失業が生ずるのである」(注8)。
 以上を総合するかのようにして、第22章「景気循環に関する覚書」は書かれ
ている。ここでケインズは、恐慌とは資本の限界効率が急速に崩壊することだ
としている。利子率が一定だとすれば、そのとき投資が急減し、不況が剥きだ
しになる。好況の後半段階において将来収益にかんし楽観が蔓延するとすれば、
その衝撃は倍加する。ここで中央銀行が貨幣利子率を下げれば、投資は回復し
そうなものである。だがケインズはそう考えない。続いて流動性選好の高まり
が襲う、貨幣への逃避が始まるというのである。
 市場にいったん確信の動揺すなわち「不安」が蔓延すると、リスクを回避し
ようとする人々は流動性(貨幣)の確保に走ることになる。それが消費財であ
れ投資財であれ、有効需要を停滞させる。ケインズはここで、「流動性の罠」
の可能性を発見したのである。それはよく言われるように債権価格が上がりき
ったために生じるだけとは限らない。「個人主義的資本主義の経済においてき
わめて制御しにくいものは、……確信の回復である」(注9)。
 ケインズは本書で「数量単位」として、貨幣価値のみならず雇用量も採用し
ている。労働を同質のものとしたために集計が可能になり、集計量としての労
働量と総生産の関係が総供給として定式化されたりもした。ハイエクは『一般
理論』を、集計量を扱っているという点で批判しているが、それは労働を同質
に扱ったことに向けられたのだともいえる。貨幣以外には等質の価値尺度は存
在しないということだ。
 だが貨幣の流動性を重視するという『一般理論』の論調からすれば、別の見
方もできるのではないか。人が市場で活動するために貨幣を一定額保有する必
要があるのだとして、それはどのようにして入手することができるのか。生産
要素すなわち、土地か資本、労働のいずれかを売却すればよい。そして20世紀
初頭のイギリスにあって、このなかで同質であるがゆえに売却可能性がもっと
も高いのは、労働であろう。識字率も高まり、初等教育も普及したからである。
そして労働を売却すると、貨幣賃金が得られる。稼いだ貨幣を支払って商品を
購入するには、次に貨幣を得られる見通しが慣行によって与えられていなけれ
ばならない。そのように貨幣を得ること・手放すことの連鎖によって市場経済
が運行することを論証しようとしたのが、『一般理論』であった。
 以上のように俯瞰してみると、経済政策を通じて有効需要を管理し非自発的
雇用を消滅させようとして書かれた『一般理論』には、二つの側面があること
になる。一つは、金融政策によって利子率の操作が可能であるような場合。将
来についての見通しがある程度まで確実と目されるならば、金融緩和により公
衆が貨幣を持てば消費か投資に使われるため、有効需要が拡大する。『貨幣論』
においてケインズは物価安定のための金融政策を唱えたが、本書ではむしろ金
融政策は雇用対策になるとみなしたのである。もう一つは逆に、将来への不安
から貨幣の退蔵が大規模に起きている場合。このとき公衆が貨幣を消費にも投
資にも使わないから、金融政策は無効になる。ケインズは公共投資論者である
かに言われるが、公衆に代わって政府が金を使うのが公共投資であり、ケイン
ズはそれを将来の見通しが不透明化した際に限って実施すべきと唱えたのであ
る。 
 貨幣賃金の引き下げにかんしても、同様のことが言える。将来の見通しに確
信が持てる状況であれば、ピグーや現在のケインジアンが主張するように消費
や投資への影響よりも労働市場での需給だけを検討すればよいから、雇用は増
大するだろう。けれども将来不安が拡がっているなら、貨幣の保有量が減るこ
とでそれを使うよりも退蔵したいという気持ちが高まり、消費性向や資本の限
界効率は低下する。
 賃金引き下げによる不況の深刻化を予告し公共投資による手当を唱えたケイ
ンズは、このように将来不安の高まりを当時の不況の原因とみなしていたので
ある。(つづく)

注
1.ウィトゲンシュタインは、「スラッファと議論すると、枝をぜんぶ切り落
   とされた樹になったような感じがする」と語っている。
2.菱山泉『スラッファ経済学の現代的評価』(京都大学学術出版会、1993)
   の解釈による。本書はスラッファを中心とする詳細かつ明晰な論考である。
   菱山はヴィクセルとケインズの共通点として、「利子率を外生化するモデ
   ル」「利子率が固定価格」である点を指摘している。対照的にリカードは、
   組織された信用経済において銀行は、貸付資本市場の競売人の役割を果た
   しており、利子率のせり上げとせり下げによって需給を均衡させるという。
   つまり貨幣利子率は貸付資本の需給により自律的に動く変動価格とみてい
   た。
3.邦訳p.241
4.邦訳p.30
5.宇沢弘文『ケインズ『一般理論」を読む』岩波現代文庫、2008、p.76
6.邦訳p.149
7.邦訳p.150
8.邦訳p.234
9.邦訳p.317

┌─────────────────────────────────┐
|松原隆一郎(まつばら りゅういちろう)              
|1956年生まれ。神戸市出身。東京大学工学部都市工学科卒業。東京大学大
|学院経済学研究科博士課程修了。現在、東京大学大学院総合文化研究科教
|授。専攻は社会経済学・相関社会科学。社会科学と俗世に関する該博な知
|識を駆使して論壇でも活躍、アカデミズムとの相互乗り入れを図る。  
|著書に『失われた景観』(PHP新書)、『消費資本主義のゆくえ』『経済
|学の名著30』(以上、ちくま新書)、『分断される経済』『長期不況論』
|(以上、NHKブックス)、『武道を生きる』(NTT出版)、共著に『<新しい
|市場社会>の構想』(新世社)などがある。                                  
└─────────────────────────────────┘



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆ 
◆ 2)『本気で考える池田屋事件』第43回        ◆ 
◆                中村武生          ◆ 
◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  

 三縁寺に池田屋での戦死者の遺体を運んだのは、照幡寛胤(ひろたね)や入
江宗治郎らがのべるように、新選組を含む会津松平家関係者と思われる。その
理由は、長州屋敷が遺体を収容したことの確実な吉田稔麿(としまろ)の遺体
が、三縁寺とは別の場所に葬られているからである。それはどこか。
 元治元年(1864)6月12日付、塩屋兵助・源助が稔麿の叔父里村文左衛門
・丑之輔に宛てた書翰には、稔麿の遺体は「(○六月)七日、霊山へ御送りの
よし」(『野史台維新史料叢書』6、93ページ)とある。同年6月13日付、同
じく塩屋のゆき(兵助の妻と思われる)が同じく里村に宛てた書翰にも「御墓
ハりょふぜん(○霊山)」(同書、112ページ)とある。
 ほかに同年6月22日付、時山直八・中村芳之助から稔麿の父清内に宛てた
書翰には「神祭ニ相成申候」(「諸家文稿尺牘」のうち、山口県文書館蔵)と
あるほか、父清内がまとめた「吉田稔麿年譜」(慶応元年〔1865〕12月)に
は「東山霊山へ神祭」とある(来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿』158ページ)。
総括すると、稔麿は洛東霊山に埋葬・神祭されたということになる。
 神祭の地、霊山とは、東山三十六峰のひとつ霊鷲山(霊山)にあった、村上
丹波都栄(のち常陸都平<くにひら>)が主宰する霊明舎(社)のことである。
なぜここに吉田稔麿が埋葬されることになったのか、その事情を知るため、霊
明舎とはいかなる施設か紹介しておきたい。
 霊明舎は文化6年(1809)、洛東霊山正法寺(時宗)境内に創立された神道
施設である。創始者は白川家門人、従六位上村上日向目都ト(ひゅうがのさか
ん・くにやす)で、主殿寮で史生(ししょう)をつとめる地下官人だった。もと近
江彦根の伊藤貫仲なる者の子であったが、のち「美濃金森ノ藩」村上文右衛
門の養子となり、その後京都に出た。その間、国学をまなび、神道に帰依した
結果、当時の寺請制度下、神職にあっても死後はみな仏葬されることを「何共
(なんとも)遺憾千万」に思い、同地で神道葬祭を開始する。ただし神祇管領
吉田家の許可をえたものの、表向きは土地を借りた正法寺山内清林庵の行う
「時宗葬」とされた(今村あゆみ「神葬祭から『招魂』へ―京都東山霊明社に
おける招魂の変遷」『史泉』103号、関西大学史学・地理学会)。
  とはいえ京都近郊で神道葬祭がなされる、おそらく唯一の場所として幕末期
注目される。幕末期の当主は、既述したように、三代村上丹波都栄である。毛
利家が霊明舎と交流をもつのは文久2年(1862)のことである。
 霊明神社蔵の記録「長州招魂場所々神名帳」によると、長府毛利家の儒臣で、
萩明倫館の教官もつとめた船越清蔵の死がきっかけとされる。文久2年(1862)
閏8月8日、船越は周防絵堂で死去した。生前船越と交流のあった、洛中高倉
三条の尼門跡、曇華院(どんげいん)家臣吉田玄蕃が、その供養を村上都栄に
求める。同年11月18日、吉田玄蕃が祭主となり、船越清蔵の「石碑ノ台石」が
納められ、祭事が行われた。これに「長藩五十人斗(ばか)り参詣」し、「君
公ヨリ御使者」もあったという。その一週間前の同年11月11日付、山県有朋
宛杉山松介書翰に、「松陰先生建墓一件、尚遺続の事も有之由。建墓は吉田玄
蕃船翁建墓之事に付、先生のも同様周旋仕候由」(『山県有朋関係文書』2巻、
274ページ)とあることから、これは事実と思われる。
 当時、安政大獄犠牲者の名誉回復が行われ、祭祀が行われようとしていた。
  同年10月、久坂玄瑞の備忘録「筆廼末仁満爾(ふでのまにまに)」には、
「船翁墓碑之事」や「森山等墓之事」とか、「有志諸士招魂碑。山田へ返書。
大楽(源太郎か―中村注)同断。子遠(入江杉蔵―中村注)同断。大賀同
断」のほか、「先師改葬の事」などといった文言がみられる(『久坂玄瑞全集』
713〜714ページ)。
 久坂や杉山ら長州志士は、安政大獄に斃(たお)れた「先師」吉田松陰や、
寺田屋事件で殉難した森山新五左衛門など、「有志諸士招魂碑」を建ようとし
ていた。京都における殉難者慰霊の開始である。船越は殉難者ではないが、た
またまその直前に亡くなったため、久坂や杉山ら松陰門下が祭祀対象のひとり
に含めたのだろう。
 徳川権力との相対化を目指す毛利家にとって、徳川家がはじめた寺請制度下
の仏式による葬祭ではなく、復古的な神道葬祭を導入することは誠に都合がよ
かった。
 霊明舎が毛利家にとどまらず、神道葬祭による殉難者慰霊の地として広く知
られるようになったのが、その直後の文久2年(1862)12月14日に行われた、
在京の大名家臣が多数村上都栄方(霊明舎)に集まった合同慰霊祭であろう。
 参加した下野宇都宮の県信輯(あがたのぶつぐ=勇記)や、京都の山陵研究
者平塚清影(飄斎)などの日記によれば、参加者は約百七十人で、午刻(午後
0時ごろ)より暮れすぎまで、「戊午(安政5年=1858)以来、国事ニ殉者之
忠魂義魂を祭」った。「殉国忠死霊」(あるいは「報国忠死霊」)と大書して
村上邸の壁に掲げ、石見津和野の福羽文三郎、備前の土肥典膳、長州の片山寛
(貫)一郎・世良孫槌、薩摩の中村源吾、京都の長尾幾(郁)三郎、近江の西
川善六(吉輔)らが中心となり、白川神祇伯の家臣古川美濃守躬行(みゆき)
が祭主をつとめた(「大日本維新史料稿本」同日条、東京大学史料編纂所蔵)。
 それとは別に、宮崎幸麻呂「招魂社の濫觴」(『如蘭社話』22、1891年)は、
六十六名の参加者を記録している。以下、列記する(上記史料との重複者には
*を付した)。
【祭主】白川神祇伯の家臣古川美濃守躬行(江戸)
【頭取会頭】*福羽文三郎(石見津和野)、*世良孫槌(長州)、*西川善六
(吉輔、近江八幡)、*長尾幾(郁)三郎(京都) 計四名
【来会人名】
<防長>渡辺新三郎(周防)、生田森衛(周防)、林常太郎(長府)、小国融蔵
(長州須佐)、多禰卯一(長州須佐)、内藤瑳亮(長州須佐)、大谷樸助(長
州須佐)、池田潤助(長州須佐)、田村育蔵(長州須佐)、楢埼八十槌(長州)、
佐々木二郎四郎(長州)、河上弥助(長州)、澄川敬蔵(長州)、野村和作(長
州) 計十四名
<京都>木村数馬、谷森外記、熊谷貞孝、小川日向守(徳大寺家)、吉田玄蕃、
水口伊勢介、兼田伊織(鷹司家)、国分主殿、中島永吉、小室理喜蔵、大高又
次郎、宇喜多八郎、熊谷久右衛門 計十三名
<石見津和野>森岡新五右衛門、大野庄吉、大谷庄三郎、桑本才次郎、小林弥助
 計五名
<淡路>上田総吉、林立原、柏村半蔵、大島徳太郎、浦松簡介 計五名
<因・伯>田中恒蔵(因州)、湯本増助(因州)、門脇将曹(伯州) 計三名
<陸奥会津>秋月悌二(次)郎、柴秀治(次)、柿沢勇記 計三名
<三河>山本静逸、松本謙三郎 計二名
<近江八幡>本荘敬蔵、北与三郎 計二名
<二本松>河合八蔵、増子衛守 計二名
<下野宇都宮>*県勇記、吉田精一郎  計二名
<薩摩>大山彦八、柳田岱淳  計二名
<備前>村上久二郎(土肥典膳家臣)、岡元太郎(土肥典膳家臣)  計二名
<尾張>安達文一郎
<紀伊田辺>小川裕蔵
<摂津大坂>豊田筑前
<但馬豊岡>田路平八郎
<水戸>黒沢紋二郎
<不明>松田儀十郎
 典拠の記載がなく鵜呑みにしてよいかは問題にすべきだが、あるていど信用
してよいと思う。祭主として古川美濃守躬行、「頭取会頭」として福羽・世良・
西川・長尾を記し、前掲史料の中心人物と矛盾しないからである。備前の土肥
典膳、長州の片山寛(貫)一郎、薩摩の中村源吾が記されない点は気になるが、
単純に書きもらしただけかもしれない。というのは、土肥典膳の家臣である村
上久二郎と岡元太郎が参加者に含まれるためである。
 京都、周防・長門、津和野、淡路、近江八幡、会津、二本松、宇都宮、薩摩、
三河、備前土肥内、因幡、伯耆、紀伊田辺、大坂、但馬豊岡、水戸、尾張と実
に多彩な参加者である。百七十名の参加者との記載が事実であれば、ここに記
されなかった百名もの人物がいたことになる。その他、陸奥会津からも参加者
があることなど個々論ずべきことがあるが、ここでは深く立ちいらない。
 とりあえず防長(毛利家)からの参加者が最も多いことに注目しておきたい。
その後も毛利家が主体的に霊明舎とかかわりを続ける。
 霊明神社蔵「霊明社神霊録」によれば、「文久三亥年、長門様御父子共御在京
之節御藩中に死亡の人あり、依之(これにより)当山に墓所出来す。夫(それ)
より追々勤王有志の輩を埋葬して光陰を送り候」とある。それが同年3月7日
に死去した、松浦冨三郎道一・中谷彪次郎直彪・勝木又蔵久徴・楢崎仲輔清武
と思われる。同神社蔵「長州招魂場所々神名帳」に「実葬、体ヲ葬」るとある。
同記録によれば、その後もつづく。南木四郎義次(同年3月23日)、松尾甲之進
(同年8月20日)、周田半蔵正順(同年9月7日)らで、いずれも「実葬」され
たと記されている。これらは維新後に編纂された記録のため、若干実証性に欠け
るかも知れない。
 が、その間の同年7月29日、土佐の吉村虎太郎が、前日亡くなった同郷の宮地
宜蔵の埋葬・祭祀を村上丹波都栄に依頼した文書が同神社に残されている(同
日付、村上丹波宛吉村虎太郎書翰)。それによれば、「宮地宜蔵墓地」として、
「壱坪半之料三両」を支払い、翌30日に「可成(なるべく)連々」参加して祭
祀を行おうとしていたことがわかる。吉村虎太郎ら亡命した土佐志士は、多く
長州毛利家の政治活動に参加している。長州系志士といってよかろう。毛利家
やそれに連なる在京志士が、その埋葬を霊明舎に多く依存していたことは確実
といえる。
 翌文久4年になって、2月11日、久坂義助が古高俊太郎に宛てた書翰に、長
州屋敷で稲荷祭が行われ、「多人数雑踏」状態だと触れている(拙稿「古高俊
太郎考」『明治維新史研究』第1号、41ページ)。その祭祀を誰が行っていた
か触れないが、霊明神社に「長州稲荷」で使用された祝詞が現存する。このと
きのものかは不明だが、村上都栄は殉難者埋葬だけでなく、長州屋敷に出張し
て稲荷祭祀を行っていたのである。同年(元治元年)3月4日には、久坂義助
は村上都栄に先祖の永代供養を依頼した(元治元年3月25日付、妻杉文宛久坂
義助書翰『楫取(かとり)家文書』263ページ)。すでに久坂の両親など先祖は、
萩の保福寺に仏式で供養されていた。霊明舎と長州志士のつながりの深さがわ
かる。
 池田屋事件が起きたのはその2ヵ月余後である。前掲した文書などにより稔
麿が霊山に埋葬されたことは確実である。なんども引用してきた霊明神社蔵
「長州招魂場所々神名帳」の稔麿の項にも、「神去。体ヲ葬ス」「実葬」した
などと記されている。稔麿が埋葬されたことになんら違和感はない。
 ところで池田屋戦死者のうち、霊山に埋葬されたのは稔麿だけではないと思
われる。「長州招魂場所々神名帳」には、杉山松介と野老山(ところやま)吾
吉(吾吉郎)も同様に「実葬」などと記される。杉山と野老山が長州屋敷内で
亡くなったことはほぼ確実であるので、同じく遺体を長州屋敷が確保した稔麿
とともに霊明舎に葬ることは十分ありえる。
 稔麿は久坂玄瑞と親しく、また稔麿の通称を命名した萩の神官青山上総が神
道葬祭研究に従事していたことから(藤井貞文『近世に於ける神祇思想』242〜
243ページ)、彼らとの交流のなかで稔麿も生前に、死後神道葬祭を望んでいた
可能性もある。が、「非合法活動者」であったという点も指摘しておきたい。
 たとえば池田屋事件の10日後、一橋慶喜の側近平岡円四郎が京都で殺害され
る。その際、刺客の江幡定彦・林忠五郎も闘死し、江幡・林は因州河田左久馬
の世話でひそかに霊明舎に葬られた(「酒泉直滞京日記」172〜174ページ)。
この場合も非合法活動者の祭祀である。酒泉が日記に「村上氏ハ気概アル人」
とわざわざ記したのは、村上都栄がそれを承知で埋葬を受諾したからにほかな
らない。
 池田屋事件で戦死したすべての長州関係者が霊明舎に埋葬されたかといえば
そうではない。宮川町遊郭で殺された吉岡庄祐は、寺町通蛸薬師の誠心院に葬
られている。なぜ吉岡は霊明舎ではなかったか。彼は長州屋敷の正規職員だっ
たからと考えられる。同寺には以前よりの在京の毛利家職員の墓碑がある。お
そらく客死した毛利家の正規職員の埋葬地と定められていたのではなかったか。
 以上のことから、池田屋内で戦死した者を三縁寺に葬ったのは長州屋敷関係
者ではない。斬った新選組をふくむ会津松平家関係者と判断してよかろう。長
州屋敷関係者が奔走して三縁寺をみつけて葬ったという話を、霊明舎や誠心院
埋葬事例を根拠にして否定したというわけである。(つづく)


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│中村武生:歴史地理史学者。1967年生まれ、大阪府出身。佛教大学大学院 
│文学研究科博士課程前期(日本史学)修了。京都女子大学、天理大学の非
│常勤講師や、京都新聞文化センター、京都おこしやす大学、NHK文化セ 
│ンター、よみうり文化センター、中日文化センターなどの講師をつとめ  
│る。NPO法人京都歴史地理同考会理事長。著書に『御土居堀ものがた  
│り』、『中村武生の京都検定日めくりドリル500問』(以上、京都新聞出 
│版センター)、『京都の江戸時代をあるく――秀吉の城から龍馬の寺田屋 
│伝説まで』(文理閣)。                             
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次回は3月18日、配信予定です。 
ご意見、ご感想などはingen@kodansha.co.jpまでお願いいたします。 


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