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  現代新書カフェ
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□            
□        講談社 現代新書カフェ〜083〜          
□            2011年1月11日            
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  ‖         〜〜 メニュー 〜〜 
  ‖ 《1》◆連載企画◆ 
  ‖    (1) 「いつだって大変な時代」
  ‖                     第9回  個性の尊重でゆがむ世界
  ‖                                           堀井憲一郎
  ‖    (2) 「貨幣と市場――ケインズとハイエクが追求した不安」
  ‖         第6回 ケインズの「考え方の癖」と『確率論』
  ‖                                                   松原隆一郎
  ‖     (3) 「本気で考える池田屋事件」 41回
  ‖                                                           中村武生 
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 あけましておめでとうございます。
 今年も現代新書および現代新書カフェをよろしくお願い申し上げます。
 10年前は9・11、100年前は辛亥革命がありましたが、2011年はどのような
年になるのでしょうか。

 今年最初のメルマガは、内容充実の連載3本です。お楽しみください。
 

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◆《1》連載企画◆ 
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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆ 
◆                                 ◆
◆ 1)『いつだって大変な時代』第9回      ◆ 
◆   「個性の尊重でゆがむ世界」      ◆
◆                  堀井憲一郎      ◆
◆                                  ◆
◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  

「はじめてのおつかい」という番組がある。
 年2回ほど放送されている。小さい子供が一人でおつかいに行くさまを放
映している。1991年から始まっているのですでに20年、続いている番組だ。
ときに過去の「おつかい」が放映されることがある。90年代の前半の映像に
は、いまと違う特徴がある。それは「カメラマンが映り込んでいない」という
ことである。3歳くらいの子供が1キロほどの行程を一人で歩くのだ。それな
りに危ない。だからかなりの数のカメラマンが地元民に変装し、また監視役の
スタッフも変装して見守っているのだけれど、いまの放映では必ずスタッフが
映り込んでいる。カメラマンが先回りしようとして不自然に通り過ぎるところ
や、慌てて隠れるカメラマンなどが何回も映し出される。最初のころはそうい
うものは映り込んでいなかった。かつて日本テレビのディレクターと一緒に
「はじめてのおつかい」映像を見てるときに「昔のはきれいだなあ」とぼそっ
と言ったのが印象的だった。なに、と聞くと、昔はほんとうに子供が一人でお
つかいに行ってる心情に沿って映像が作られていて、そりゃそう作るのが当然
のことなんだけれど、スタッフが慌てふためいているところや、ぞろぞろ動い
てるところなどは一切映ってなかった。
 どうも視聴者からクレームがついたらしい。
 つまり、かつてのような「ほんとうに子供が一人きりでおつかいに行ってる
映像」では、大変危ないではないか、という抗議がいくつか来たらしいのだ。
テレビ局はクレームがくるとけっこう対処してしまう。そこで、子供は本当は
一人ではない、複数の大人によって守られているのだ、ということを「わかり
やすく」映像に映し出すことにしたのだ。映像を作るディレクターの心情とし
ては、昔の、大人が映っていない映像のほうが美しかった、とおもうわけであ
る。テレビ局の人間としては「そんなの大人が守ってるに決まってるだろう」
ということなのだけれど、たしかにまあ、それは一生懸命にテレビを見てる田
舎のおばあちゃんにはわからないだろう。
 ただ放映されているかぎりは事故はないに決まっているし、それぐらいのこ
とを想像する力はあるはずである。それを想像しないというのは、必死で想像
しないようにしているだけだ。スタッフが映り込んでいる姿まで映さないと、
放映できない、という状況に、いろんなわれわれの心情が反映されているとお
もう。
 この場合のクレームは、子供を心配してのことではない。クレームの方向は
「子供のことを心配してしまう私の心労をどうにかしろ」ということである。
子供の危険を心配している体を装ってるぶん、かなり暴力的なクレームである。
要は、テレビを見ていて余計な心配をさせるな、もっと安心して見られるもの
を提供しろ、という要求でしかないわけだから。
 ポイントは「安心できるものを提供する義務があるだろう」とおもう、その
心根にある。この考えは間違っていない、と信じてるところにクレーマーの問
題はあるし、それはクレーマーだけの問題ではなく、多くの人にも同じ心根が
潜んでいるという問題でもある。でないとテレビ局もそうそう対処するわけで
はない。あまりに特殊なクレームの場合は対処しないが、こういう「このクレ
ーマーのうしろには似たような感情を持った人がそこそこいるだろう」と想像
できるものに対しては、番組内容を変えていくものである。
 安心できるものが常に提供されているべきだ、という不思議なおもいこみが
我々には根付いている。それを声高に主張するのはいいことだ、とどこかでお
もいこんでいる。これは考えてみると、ちょっと不思議である。
 
 夏場に野球をやる。暑いさなかに練習することもある。
 1960年代から70年代に少年時代を過ごしていた私は、ずっと「スポーツの
練習中は水分摂取禁止」であった。すごく厳しく禁止されていることもあった
し(それは高校のサッカー部ですね)、緩い禁止もあった。つまり水飲みは禁
止されていないけれど「いっぱい飲んだら腹が痛くなるので、少ししか飲んで
はいけない」というレベルの緩い禁止である。そういう時代に育った。いまは、
時流に乗って、スポーツ飲料を飲むがやはり飲み過ぎると腹に負担がかかる
のは事実なんで(それは年をとったからわかったことでもあるんだけれど)、
そこそこにしか飲まない。
 ときどき、あまりにこまめに水分を摂る連中を見ていると「今日は、水分摂
取禁止だ」と宣言することがある。ま、もちろん、誰も従わないとわかってい
て宣言するのだけれど、そういうことが言いたくなってしまう状況でもあるか
らね。
 この「練習中は水を飲むな」を言うと、若い連中(とはいえ上は30代半ば
までを指していますが)から返ってくるセリフは、なぜか必ずひとつである。
 「死にますよ」
 必ずこう言う。ためしにあなたも若い連中に言ってみればいいですよ。必ず
言う。必ず「死にます」と言う。まあ死にますといっても、本気で死ぬことを
想定してるわけではないのはわかる。「死ぬほど頑張る」というような、比喩
的な気持ちもあるだろう。でもまあ、冗談半分にしても、残り半分はなんだか
真剣である。半分真剣に「炎天下で水を摂らないと死にますよ」と言うのであ
る。
 ここには確実な世代格差があり、おそらく「軍隊経験」の記憶がどこまで伝
わっているのか、とリンクしてるとおもう。われわれ1950年代生まれは軍隊
経験者によって教育されていたから、ふつうに、水は我慢するものだった。
 ただ、うちの草野球チームになぜか中学2年生の男子が一人入っていて、
ときに練習に参加するのだけれど、彼の水分摂取風景を見てると、ちょっと異
常である。ノックが一人終わると(自分がノックを受けたわけではないのに)
その隙にベンチに戻ってスポーツ飲料を飲む。10分に一度は水分摂取をしな
いといけない、と完全におもいこんでいるようだ。おそらく徹底的に脅されて
いるんだとおもう。「夏の暑い盛りに水分を補給せずに激しい運動を続けてい
ると、死にます」という文言によって、カラダの底まで脅されているように見
える。「そんなにこまめに摂らなくても死なないよ」と言ったところで、まっ
たく貸す耳を持たない。そう信じ込んでいるものは強い。強いというか何とい
うか、やや宗教的信念のようにも見えます。
 そういう文言は、夏場のテレビを見ていても、繰り返し放送している。家の
中にいても熱中症になります、水だけではいけません塩分も摂らないといけま
せん、こまめに水分を摂取しましょう、できれば外出は控えましょう。
 ほんとにまあ、ママが出てきてずっと喋ってるみたいだ。そしてまたママン
の言うことをみんなきちんと聞くようになってしまいました。
 
 部活における「水飲み禁止」がいつごろまで続いていたのか、かつて調べた
ことがある。結果としてはいまでも、軽く禁止されているところはあるようだ。
ただそれも全体の1割から2割。残り8割以上は「積極的に水分を摂りなさ
い」と教えているという。
 ただ、草野球をやってるほうとして言わせてもらえば、いつでもすぐに水分
を補給できることを前提に練習していたんじゃ練習にならない、ということに
なる。野球は時間制限のないスポーツなので、たとえば、相手チームの猛攻撃
が続き、守備にずっとついていなければならない、というとき、そのあいだは
ずっと水分補給ができないことがある。20分守り続けているということはふ
つうに起こるわけで、投手が一人しかいないから投手交代もないということも
よくあることで、その20分間ずっと水が飲みたい水が飲みたいとおもって守
ってちゃいけませんわね、ということになる。自分に対する危機管理みたいな
もので、「暑いさなかに炎天下30分水分を補給しなくても大丈夫なように自
分を鍛えておく」というのが最低限やって欲しいことである。たぶん、いまは
このような部分も否定されているところがあるようだ。
 それはやはり「水を摂らないと死ぬ」という強いおもいこみによるものだろ
う。
 中学生のほうが懸命に守ってる姿を見ると、そうおもう。
 そしてその「死」は、かなり実感が薄い。
 死に対する距離感にも、濃いものと薄いものがある。
 濃い距離感とはつまり「自分もいずれ死ぬ存在である」と意識して生きてい
る考えであり、薄いものは「とにかく死は避けたい」とだけ考えているもので
ある。
 とにかく「死ぬ」のは遠ざけないといけない、という考えが、いくつもの不
思議な光景を生み出している。
 日本古来あった死穢の流れとも、また別の感覚である。
 死は、ときに突然やってくるものであり、不可避である。そんなことは、み
な、わかっている。わかっているが、頭の中だけではなく、どれぐらい身体性
を帯びて信じているか、という問題なのだ。
 それは個性の問題でもある。人はみな一人ずつ個性を持っている素晴らしい
存在なのです、とばかり吹き込まれると、どんどん歪んでしまう。もちろん、
個性を持っているし、素晴らしい存在だとはおもうけれど、それはまた、ホモ
サピエンスであるかぎりは集団で生きていかないとかなり厳しいということが
前提となっていて、わざわざそこには触れていない、ということになる。われ
われは集団で生きているから、地球上で大きな顔をしていられるのであって、
個体として一人だけで森の中に生きているとかなり弱いですね。森って、すご
い漠然としたイメージだけど、いろんな獣が生きている中で個体としていると、
さほど強いものではない。妊婦も妊娠してる期間がけっこう長いし、身体的に
強い動物ではない。ただ、かなりの人数で徒党を組むと、最強の集団を形成で
きる。そうやって、生き延びている動物です。ですから、つまり、集団を形成
して、その集団が破れないようにしておくことが、われわれが種として存続す
る最低条件なわけですね。だから、集団で生きている、ということがまず生存
の絶対条件なわけだ。その枠内で「個性を持って生きる」のは、集団の事情が
許す限りはいいことだとおもう。でもそれはあくまで枠内の個性でしかない。
そして、貧しい時代には、それは言葉にされなくても理解されていた。
 水飲み禁止を、すべての生徒に強制的に要求していれば、それは虐待である。
 ただ、状況によっては水を飲むのを我慢する訓練は、生存のためにはまた必
要なことでもある。「いつでも必要なときに水分摂取を」という動きが加速して
いったのは「ペットボトルの普及」とリンクしている。ペットボトルに入った飲み
物がいとも簡単に手に入り、いつでも飲めるようになっているからこそ、水分
摂取が自由になっていったわけだ。何も、軍隊的訓練から自由になった成果
として、平和運動の一環として、スポーツ選手が水分を摂取できるようになっ
たわけではない。資本が動いて、金が投下され、多くの人にゆきわたるように
なったから、水分摂取も可能になっていくわけである。そしてまた、いつも冷房
の効いてる部屋で過ごしている時間が長く、授業も冷房の効いた部屋で受け
ている子は、たしかに炎天下での激しい運動には弱くなっていくだろう。でもそ
れは好んでの個体の弱体化であって、そこに「死」の概念を持ち込んで脅す
のもまた間違った方向である。
 個人ひとりずつが素晴らしい存在である、と徹底的に教えてゆくと、つまり
個性ばかりを尊重していくと、死が隠されていく。
 世界にふたつとない自分は、きちんとおもいどおりに生をまっとうするはず
だ、ときちんと信じていると、理不尽な死は認められなくなる。人の死はとも
かく、自分の死は認めてはいけないことになる。個性の尊重は死を隠蔽してゆ
く。
 死を隠蔽して隠蔽しきれるのならそれで無事だけれど、やがてどこかで直面
することになる。そして、その死の瞬間までもコントロールしようという邪な
意識が出てくると、それはたとえば終末論によって他の人も巻き込んで終わり
にしたい、という考えになるし、また、自分で死を決められるという自裁の流
行へとつながっていく。早い話が、いきなり神になろうという飛躍であって、
ひごろ、ごく普通に付き合っていないぶん、死に対しては不思議な対処のしか
たしかできなくなっていく。
 個性を尊重することによって、世界にふたつとない自分の存在という自我ば
かり拡大していくと、世界がどんどん歪んでいく、ということである。(つづく)

┌───────────────────────────────┐
|堀井憲一郎(ほりい・けんいちろう)
| 1958年生まれ。京都市出身。コラムニスト。
|週刊文春にて「ホリイのずんずん調査」を連載中。
|著書に『若者殺しの時代』『落語の国からのぞいてみれば』『落語論』
|(以上、講談社現代新書)、『東京ディズニーリゾート便利帖』(新潮社)、
|『青い空、白い雲、しゅーっという落語』(双葉社)などがある。
|最新刊『江戸の気分』(講談社現代新書)。
└───────────────────────────────┘ 


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◆                                         ◆ 
◆ 2)『貨幣と市場                                       ◆
◆      ――ケインズとハイエクが追求した「不安」             ◆ 
◆    第6回 ケインズの「考え方の癖」と『確率論』              ◆
◆                                    松原隆一郎         ◆ 
◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  

◇『貨幣論』と『一般理論』の共通性◇
 ハイエクには、生産過程という時間の流れの中でどの時点に資本を投下し生
産要素を配するかを自由に決める主体として資本家をとらえるという、確固とし
た視点がある。ハイエクにとって市場とは、そうした資本家の判断のうち、いず
れが社会全体にとって有効であるのかを判定し、相対価格によって表現する
制度なのである。そうした観点からすれば、前回紹介したようなケインズ『貨
幣論』に対する評が書かれたのも、いわば必然であった。そして酷評された側
のケインズは、5年の後に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を刊行する。
 『貨幣論』と『一般理論』の間には、経済観の大きな転換があると言われる。
総需要が縮小したため供給された商品のうちに売れないものが現れるといった
意味で「セイの法則を捨てた」ことや、将来に関し起きる事柄につき確率分布
どころか種類さえも不明ととらえて「不確実性を強調した」こと、貨幣利子率
と自然利子率の乖離が一般物価水準を変化させるという「ヴィクセル・コネク
ション」を捨てたことなどが、転換の内容とされている。実際、『貨幣論』評を
読んだケインズがハイエクに対し「気にすることはないよ。私はあんなことは
もはや信じてはいないんだから」と口頭で語ったときに念頭にあったのは、そ
うした着想の変化であったことは間違いない。
 ハイエクにとっても、この変化が見過ごせるものではなかったのは当然であ
ろう。ハイエクは『貨幣理論と景気循環』(1928)以来、一般物価水準に注目し
たのでは、市場が個々人に情報を伝達し秩序づけるという相対価格の働きが隠
れてしまうと主張していた。一般物価水準の安定は、経済が均衡から離れない
ようにするための条件たりえないとみなしていたのである。集計量である一般
物価水準に照準を合わせているという点で『貨幣論』を批判したのであるから、
物価までもが議論の枠から排除された『一般理論』は、さらなる酷評の対象と
されるはずであった(注1)。
 だがそれにもかかわらず、筆者には『貨幣論』と『一般理論』の共通性が気
にかかっている。それは経済学者が両書の間に「ケインズ理論の転換」を見出
すとき、無視された、もしくは関心を向けられなかったことである。ケインズ
の経済理論には、「考え方の癖」とでも言えるような一貫性が見られる。主張さ
れる「理論」は様々に変奏されるとしても、その「奏法」には共通性が見て取
れるのである。筆者には、両書が次のような特徴を共有しているように見える。

   1.現代社会は、生起する出来事の種類すら分からない不確実性のもとで営
     まれている。経済モデルは、不確実性や貨幣を中心概念としつつ、分析
     者がある時点・ある場所において問題とみなす事柄を解明するために構
     築される。
   2.分析の単位を選定し、それを定義するに当たって、「同質性」に注目する。
     単位の選択は、学者がではなく、人々が日常に使う言葉に即して行われ
     ねばならない。
  3. その単位は同質であるがゆえに「集計」される。
  4. 経済は、集計量の均衡関係式によって表現される。
  5. 分析に用いる概念にも、学者間で共有されるものだけではなく、社会で
     日常的に使われているものが導入される。

 『貨幣論』執筆時において、ケインズは貨幣の購買力を安定させることが喫緊
の課題であると考えた。また『一般理論』では、産出量および雇用の規模の確
保を最重要事とみなした。
 『貨幣論』第2編第8章「購買力比較の理論」でケインズは、貨幣の購買力を
比較するに当たって「同等」についての基準を見つけ出さねばならないと宣言
し、こう述べる。「われわれの任務は、何かを証明することではなく、省察によ
って正確な定義を明らかにし、それを日常の言葉が実際に意味しているものに
できるだけ密接に一致するようにさせることである」。ところが(I.フィッシャーの
数量方程式が解明しようとした)現金取引や(ケンブリッジの数量方程式が扱
った)現金残高は「人為的な」標準を採用するものであり、適当ではない。「人
間の勤労と人間の消費とは究極的な事柄」なのだから労働や購買力が標準
に選ばれるべきで、そこでみずから「貨幣の価値に関する基本方程式」を構築
することにした(注2)、というのである。
 さらにケインズは等しい感受性と実質所得を有する人々を「相似の個人」と
呼ぶが、「『相似』の一組を選び出す手掛かりとなる客観的な基準」は欠けてい
る。そこで統計学が用いてきた様々な「近似の方法」が検討され、フィッシャ
ーやケンブリッジが採用した方法は却下し、「最大公約数法」と「限界値法」が
妥当と結論する。ここで「同質性」や「単位」の選択や集計は、統計学を経済
学に応用できるか否かの問題である。
 また、『貨幣論』第1編第1章「貨幣の分類」では、国家貨幣の形態には「商
品貨幣」(金)と「法定不換紙幣」、「管理貨幣」があるとされ、管理貨幣は金本
位制のもとでの兌換紙幣のことである。これらは当時の金本位制における金お
よび金と兌換される紙幣、兌換されない紙幣のことであり、要するに米英の通
貨制度を前提として貨幣の分類と定義が行われている。
  一方、『一般理論』第2編「定義と基礎概念」では「全体としての経済体系に
関する問題を扱うのに適切な数量単位」として国民分配分や実物資本ストック、
さらには一般物価水準が不適当とされ、代わりに貨幣価値量と雇用量を用いる
旨を宣言している。単位として貨幣と労働を選ぶ理由は、この二つは同質性を
仮定しうるからだという。そして労働の集計量の関数として総需要額と総供給
額が導かれ、それらが均衡するところで雇用量が決まる(注3)。
 ケインズには、経済学者のではなく、現実の実業家の考えや行動を模写しよ
うとする姿勢も色濃い。たとえば『貨幣論』では、「強気」や「弱気」といった投
機筋の用語が理論化されている。『一般理論』には「使用者費用user- cost」
なる概念が導入されるが、これも実業の世界でケインズが観察し、採取したも
のであって、「古典派の価値理論にとって従来見逃されてきた一つの重要な意味
をもっている」。「実業家は使用者費用の観念を、明確に定式化しないまでも、
暗黙のうちに心に抱いているように見える」。
 「確信confidence」もそうである。「個人主義的資本主義の経済においてきわ
めて制御しにくいものは、日常的な言葉でいえば、確信の回復である。不況の
もつこのような側面は、銀行家や実業家によっては正しく強調されているが、
『純貨幣的』救済策に信頼をおく経済学者によって過小評価されている」(注4)。
  経済理論には、普遍性を求めると言いながら現実世界で活動する人々にとっ
てのリアリティを見失う傾向がある。それに対しケインズは、現実世界をリア
ルにとらえうるような概念で理論を構成し、同質の単位を選定して集計を行い、
経済を変数間の均衡状態として理解しようとする。経済理論を構築するに当た
ってのそうした姿勢は、一貫していると思われる。そして「集計」がハイエク
のケインズに対する論評の焦点であったのだとすれば、それはつまりハイエク
はケインズのこうした姿勢、とりわけ統計学の安易な導入を批判したことにな
る。
 ケインズ理論におけるこれらの特徴が彼の「考え方の癖」によるものだとす
れば、それは何に由来するのか。それを理解する鍵は、『確率論』(注5)にあ
る。

◇ムーアの宗教を受容し、道徳を退ける◇
 『確率論』が書かれた動機の一つに、学生時代の哲学の師G.E.ムーアの
『プリンキピア・エティカ』(注6) (1903)を批判し、乗り越えるということがある。
ムーアは、B.ラッセルとともに分析哲学を創始したとされる人物であり、ケ
インズはムーアを心底から敬愛していたが、ムーアの書には、一ヵ所ケイン
ズにとってどうしても納得の行かない箇所があった。その箇所を修正し、ムー
アが本来書くべきだった道徳哲学を完成させよう、とケインズは目論んだので
ある。
 ケインズの来歴の回でも触れたが、彼が物心ついた頃のイギリスでは、威厳
や礼節が強調されるとともに社会には暗部も存在し、二重規範や偽善が瀰漫し
ていた。20歳を迎える頃のケインズは偽善的な世俗倫理を拒否するようになり、
不道徳であってこそ真に倫理的でありうると考えていた。そして彼のそうした
振る舞いを正当化してくれるのが、ムーアの倫理学であると思われた。
  世俗の道徳は、「社会にとって有益である」とか「誰かにとって好ましい」と
いう言い方で、特定の行動様式を強いている。倫理学においては、功利主義が
そうした論法を支えていた。これに対してムーアは『プリンキピア・エティカ』
で、道徳にかかわる問いに先行する基礎命題である「善」は、社会にとっての
利益になるとか誰かの効用を高めるといった事実に還元して定義することはで
きないと述べる(善の定義不可能性)。「善いは善いとしかいえず定義できない」。
黄色を光の振動で表現したとしても、黄色が分かったことにはならない。「黄色
い」というのは、直接の視覚によって識別される何ものかであるからだ。同様
に、「善い」も事実によって定義されたり正当化されることはない。何が善かは
直覚されるだけであり、内観による真摯な吟味こそが必要なのだ。先行命題の
性質を他の事実に安易に還元することは、「自然主義的誤謬」である。「善」は
内在的価値を有する何ものかであるが、それを感覚器官でとらえることのでき
る自然に還元するのも「自然主義的誤謬」である。「善い」は、「益がある」と
か「好ましい」などの自然主義的記述語には還元できない。よって功利主義は
誤謬を犯している、とムーアは言う。
 とすれば、「社会にとっての有益さ」を目指す政治家の偽善的行為や「誰かに
とっての好ましさ」を示す経済的成功は、ともに「善」すなわち人生の究極の
目的ではないことになる。ムーアのこの主張は、ケインズやその友人たちを感
激させた。こうしたムーアの指摘は、ヴィクトリア朝において紳士に課された
義務に偽善を感じ取っていたケインズら青年たちの心をつかんだ。ケインズが
功利主義に基礎を置くA.C.ピグーの厚生経済学を一顧だにせず、A.マー
シャルの新古典派をも破壊しようとしたのは、ムーアが与えた否認の論拠に深
く共感したからだろう。選択されるべき行為は、「善さ」を直覚できる蓋然性が
最大になるものであるはずだ。
 だがケインズには、ムーアには不徹底があるとも感じられた。ムーアは、善
をなすための手段である特定の「行為」が正しいかどうかまでは直覚によって
はとらえられないから、因果的に判断するしかなく、行為の正しさは原因と結
果の関係によって論証できると述べる。ところが将来は不可知であるから、ど
のように行為すれば善さが高まるかは蓋然的にしか分からない。そこでムーア
は、常識的な道徳律や一般的規則に服すことを唱えた。
  だが、これは世俗の道徳を拒否したいケインズにとっては、到底承伏しかね
る主張だった。インド省勤務中の1906年には思想的にもこの「道徳」を批判し
修正する試みに着手、1914年には大部分が活字に組まれたものの『平和の経済
的帰結』等の政治的発言に時間を取られ、1921年にようやく出版される。それ
が『確率論』であった。
 「われわれはいわばムーアの宗教を受け容れて、彼の道徳を捨てたのである」、
と1938年になってケインズは回想している(注7)。とすれば、ムーア倫理学
の批判と乗り越えこそが『確率論』執筆の動機だったということになろう。
 ムーアの宗教とは、善の直覚にもとづく「時間を超越した、熱烈な、観照と
交わり」であり、「美的体験の創造と享受であり、そして知識の追求」であった。
そしてムーアの道徳とは、未来の不可知性を論拠に道徳や一般的規則の遵守を
説くものであった。
   ムーアが宗教と道徳を併置しようとするのは、ケインズにとっては異様な主
張に思えた。将来に何が起きるか分からないからといって過去に通用した一般
的規則を遵守せよとムーアが言うのは、将来には過去に起きたことだけが起き
るという「頻度説」の確率観を前提とするからではないのか。しかし将来にお
いて新たな種類の事象が起きるなら、過去の体験は役に立たないであろう。ケ
インズはそう考え、確率論の検討に向かった(注8)。
  ケインズが原因と結果について推論を行う際に拠り所としたのは、演繹では
なく帰納であった。ヒュームからミルに至るイギリス経験論では、何羽か見か
けた白鳥がすべて白かったという経験から「すべての白鳥は白い」という命題
を導く推論が、帰納法と呼ばれた。演繹は確実な推論形式であるが、原因と結
果の関係が蓋然的でしかない場合には使えない。それに対し帰納的推論は、
論理的に確実ではないにせよ、信念として何かしらの合理性をはらんでいる。
ここでケインズが明らかにしようと取り組んだのは、帰納的推論において信念は
どのような合理性を持つのかということであった。
 頻度説はJ.ヴェンが体系化したもので、推論の妥当性は、過去の経験的頻
度だけを論拠としている。このような頻度確率に対しケインズは、「論理確率」
を掲げる。ケインズは前提とされる命題の集合をh、hから推論される結論(帰
納)となる命題の集合をaとし、hの知識がaに対して度合いαの合理的信念
を持つことを正当化したとき、「aとhとの間に度合いαの確率−関係がある」
といい、a/h=αと書く。
 ケインズは蓋然性を、命題から命題へ、前提から帰結へいたる推論にかかわ
る何ものかとみなした。それは経験のみならず、個人の主観ないし心理からも
独立し、一種の客観性を帯びているという。また命題自体の真偽ではなく、命
題間の関係の「確からしさ」が問題になる。

◇ラムジーの『確率論』批判に、ケインズは承服する◇
 ここでケインズは、ムーアが善の定義で用いた直覚主義を、命題間の蓋然性
にも適用する。命題間に存在する推論の蓋然性もまた、直接知覚され、それ以
上は分解されないはずだ、というのである。蓋然性とは過去の経験が各命題に
対して与えるものではなく、命題と命題の関係にかかわる「確からしさ」であ
る。たとえばある仮説hの一定の証拠eに関し、ラッセルの形式論理学は演繹
的推論を用い、e/h=0(是)か1(否)かを判定する。けれども我々の日
常生活は、そのように確実ではない判断に満ちている。ケインズの帰納的推論
は、日常の推論に相当する0<a/h<1の合理的信念を扱うのである(注9)。
   こうしてケインズは、ムーアの主張するようには道徳にかんして世間の常識
や慣行を守る必要はないと結論し、不道徳であることの正当性は直覚しうると
信じたのだった。ところが1926年、数学者のF.P.ラムジーが、『確率論』
を批判する「真理と確率」を口頭発表する。ラムジーは1930年に急逝したが、
ケインズは追悼文において、「私は彼(ラムジー)が正しいと考える」と述べて
いる(注10)。つまり『確率論』は、ケインズ自身によって瑕疵が認められた
作品となってしまったのである。
 ケインズの『確率論』に対しラムジーは、「確率は命題の間の客観的関係にか
かわるのではなく、(ある意味で)確信の度合いにかかわる」と批判した。「黄
色」が定義不能であるにもかかわらず客観性を帯びているのに対し、命題間の
推論は同じようには扱えない。命題間の関係は、直覚ではなく人間的能力とし
ての「確信」によって支持されるのだという。確率は特定の命題に対する特定
の人の確信の度合いによるものであり、それは賭をする人の行動を調べること
により測定されるといったラムジーの主観確率論は、後にJ.L.ノイマンや
O.モルゲンシュテルンに受け継がれ、不確実性下の行動の基礎理論とされる
ようになる。
 ケインズはそうしたラムジーの批判を認めた。だがそれにもかかわらず、彼
はこう付け加えた。「それ(確信)が有益な知的習慣だというのみでは、帰納法
の原理の根底にまで達するゆえんではない」。つまりケインズはみずからの帰納
的推論の瑕疵は認めたけれども、ラムジーの示唆する「主観確率」の方向に進
むべきとは考えなかったのである。ではケインズは、どのように自説を修正し
たのか。
 『確率論』第V部は、「帰納と類比」に当てられている。我々は、形も色も不
揃いな果物を一括して「林檎」と呼んだりする。異同の識別は、物理的な理由
から行われるのではなく、「類比analogy」にもとづいている。多様な現象から
一般化を行う帰納法の推論が直覚されうるというのは、事象の異同を厳密に識
別する「アナロジー」と同様の認識作用だとケインズは考えた。
  そうした認識が可能となるには、条件が必要である。ある卵と卵に似た別の
物体は、卵らしさという共通点を持っていても、味や栄養については厳密には
相違している(ケインズはこれを「否定的類比」と呼ぶ)。それらがともに卵で
あると判定されるには、卵を見るという経験の繰り返し(枚挙、もしくは単純
帰納と呼ばれる)によって、否定的類比を消去しなければならない。帰納的推
理を成り立たせる直覚は、類比と経験(単純帰納)から成り立っている。
 だが経験が繰り返されれば事例が追加されるから、「否定的類比」には際限
がなくなる。とすれば、事例についての「独立した多様性が有限」でなければな
らない。そこで否定的類比にかかわる性質の種類そのものの数が有限個である
という「多様性の制限」と、世界は時空を通じ単純な性質を持つ原子から成り、
その有限個の組み合わせとして同定でき斉一的だとする「原子の斉一性」の二
つが類比の条件となるのである。

◇ケインズの回心は思想上の転換◇
  ところが『貨幣論』を出版しラムジーへの追悼文を認(したた)めた1930年頃
からケインズは、一転して帰納法にかんするこうした条件が社会科学には当て
はまらないことをしばしば指摘している。たとえば1938年7月4日付けのR.F.
ハロッドへの手紙で、こう述べる。

   私が思うに、経済学は論理学の一分野なのだが、あなたはそれを擬似的
  な自然科学としてしまうことに十分にしっかりと拒否の姿勢を示していませ
  ん。……経済学とは、その社会に適合するようなモデルを選択する技術で
  あるとともに、モデルを用いた思考の科学です。経済学がそうであらねばな
  らないのは、典型的な自然科学とは異なり、極めて多くの面で時間を通じ
  て斉一的ではない事象を扱うという性格を有しているからです。あるモデル
  をたてることの狙いは、一時的ないし流動的な諸要素と比較的恒常的な要
  素とを分離し、そうした半恒常的な要素についての論理的方法を展開するこ
  となのです(注11)。

   ここでケインズは、経済現象にかんして世界は斉一的でない、すなわち時空
を通じて単純な性質の有限個の組み合わせとしてはできておらず、無限の多様
性と複雑性とを有するとみなしている。自然科学とは異なり、経済学で扱う事
象は時間を通じて斉一性を有さず、無限の多様性を帯びているということだ。
    こうしたケインズの回心は、経済学を自然科学と異なるものとみなすという
彼自身の思想上の転換に伴うものと思われる。定数と変数を区別できるという、
経済学を自然科学に模したP.サムエルソンの比較静学の前提では、方程式体
系において定数と変数が客観的に区別されるし、ある定数(与件)に変化が起
きても他の定数は影響を受けない。それがマクロ経済学や計量経済学が成立す
るための条件である。対照的にケインズは、経済を論じることが時空を超えて
普遍的な理論を見出すことであるとは考えない。
 それゆえ彼の死後に「ケインジアン」が用いるようになるマクロ経済学や計
量経済学には極めて批判的であった。ハロッドに宛てた別の手紙では、J.テ
ィンバーゲンの計量経済学について「エセ類比pseude-analogy」と酷評してい
る。ケインズは帰納法の前提が、社会や経済については当てはまらないと理解
するようになっていたのである。
 だが筆者は、帰納的推論という「考え方の癖」までもケインズが放棄したとは
考えない。「あるモデルをたてることの狙いは、一時的ないし流動的な諸要素
と比較的恒常的な要素とを分離し、そうした半恒常的な要素についての論理的
方法を展開すること」と言うとき、流動的/恒常的という要素間の見分けは、
類比によって直覚的に行われている。だがしかしその直覚は自然科学に対する
ような客観性を保持してはいないし、経済にかんする制度や環境が変われば修
正されるものでもある。ケインズの意見が時により変わると言われるのも、当
人にすれば変わったのは自分ではなく対象としての経済の方だということにな
る。実際、1930年代という戦間期の世界経済は、とても斉一であるとかさほど
多様ではないとは言えないほど、混迷を深めていた。
   ケインズの回心は、J.コーツが指摘するように、L.ウィトゲンシュタインの
それに似た出来事と言えるかもしれない(注12)。『論理哲学論考』を書いた
前期ウィトゲンシュタインが後期の『哲学探究』へと立場を変えるに当たって
決定的な影響を与えたのが、ケインズとも親しかったP.スラッファだったこ
とはよく知られている。コーツによれば、ウィトゲンシュタインは使用法が単
一であるような「理想言語」の追究が不可能であることを悟り、言語は「家族
的類似性」を有する多様なゲーム で使用されるような「不明瞭性」を帯びてい
ると考えるに至った。
 これはケインズが、社会科学においては「多様性の制限」と「原子の斉一性」
は前提されえないとしたのと軌を一にしている。ケインズは類比と経験を用い
て帰納的推論を行う際、合理的信念は客観性を維持できないと結論した。だが
帰納的推論まで放棄したわけではない。有限性や斉一性に代え、言葉は社会で
用いられる文脈に拘束されねばならない。社会科学で用いられる概念は、「卵」
にしても、味や栄養価を物理的に測定してではなく、社会で使用される文脈に
おいて定義されるしかない。類比や帰納は、社会での使われ方に即して行われ
ねばならない。
 そう考えれば、ケインズが分析に用いる概念として、学者間で共有されるも
のだけではなく社会で使われているものに配慮した理由は明らかになるだろう。
経済を分析するに当たっては同質的であるような単位にしても、自然科学の対
象のように客観的に与えられるわけではなく、分析者が社会における用いられ
方に注意しつつ定義しなければならない。類比や帰納を「解釈」と言い換えれ
ば、ケインズも経済を集計量の均衡関係式によって表現するのだが、それに用
いる単位は分析者の解釈によって選択される。ケインズは『貨幣論』および『一
般理論』で、貨幣や所得、投資や貯蓄、投機や流動性といった概念につき解釈
を提示し、それにもとづいて集計量の均衡関係式を導いたのである。ケインズ
にとって、それは普遍性こそ持たないにせよ、一時的には経済の全体像をリア
ルに把握し混迷から救い出すための海図となるべきものであった。

◇対立点の由来◇
   こうしてみると、ケインズとハイエクの対立点の一つが鮮明になってくる。ケ
インズにとって経済学とは、分析者が経済や社会を観察し、類比と帰納をも
って経済を解釈する作業なのである。経済において何が同質であり異なるのか
を識別するのは、分析者である。そしてハイエクは、分析者が同質な単位を発
見し、それを集計することに異議を唱えた。
  ハイエクにおいては、何と何が同質であり異質であるのかを決めるのは各個
人であり、それらの解釈に優劣をつけるのが市場なのだ。分析者には、解釈を
与える資格はない。それゆえハイエクの資本理論においては資本家・労働者・
消費者といった概念はあるものの、「同質」であるのは貨幣単位だけである(『貨
幣発行自由化論』1976では、貨幣すらも市場によって選定されるとした)。鶏
卵と鶉卵が同じく「卵」に一括されるか否かを決めるのは、市場であって分析
者ではない。それらが「客観的に異種」であるとみなすのは生物学者であって、
市場ではない。
 そう考えるのがハイエクの立場だとすれば、ケインズの経済理論においては
「投機」や「投資」「貯蓄」のように類型として定義される概念と、同質ないし
平均として定義される「単位」とが混在している。ハイエクからすれば、後者
の「単位」を設定したことが集計を可能にしている。それがケインズその人の
経済理論を(当人が批判しているにせよ)マクロ経済学と同様に設計主義的な
ものとした。いくら単位の選定に際し社会の文脈に配慮したところで、「平均」
に注目することにより経済主体の個別性を消し去る統計学を、安易に経済学に
用いてはならないというのである。
 ケインズは『一般理論』で、雇用量を「単位」とみなすに当たり、個々の労
働者の特殊な熟練や異なった職業に対する適性の差異は、稼得する報酬の差に
組み込めば問題ない、としている(注13)。通常の2倍の報酬を受ける特殊労
働の1時間は、2単位として計算すれば良い、というのである。なるほどこう
した工夫は、失業が最大の関心事だった戦間期に構築されたからこそ行われた
のであろう。ケインズが『貨幣論』と『一般理論』で異なるモデルを打ち出し
たのは、経済に関し注目する課題が変化したからである。
 とはいえ雇用を単位とするということは、適性における差異を能率の違いに
過ぎないとみなすことを示している。これは労働者を、取り替え可能で統計的
に把握できる「マス」ととらえているということである。けれども小説家の労
働とサッカー選手の労働は、収入によって集計可能なものだろうか?
 一方、ケインズはハイエクの「資本の維持」(1935)を、こう批判する。「ハイ
エク教授は、資本財を所有する個人は、その所有から得る所得を不変に維持す
ることを意図し、そのため、どんな理由からであっても彼の投資所得が低減す
る傾向がある場合には、それを埋め合わすに十分なだけ取っておくまでは、彼
の所得を消費のために支出しようとは思わないであろうと示唆した。私は果た
してこのような個人が存在するかどうか疑問である」。
 これは、ハイエクの「資本家」が類型として現実的でない、と言わんとする
ものだろう。だがハイエクにとって資本家は、少なくとも資本主義の時代にお
いては、時代や場所によって働きを異にするものではない。類型化されるべき
存在ではないのである。
 このように両者の対立は、経済における登場人物や財を分析者が類型化した
り同質化することができるのか否かをめぐる、方法論に由来するものであった。

注
1.Hayek on Hayekでは、こう述べている。「ちなみに私は、『貨幣論』の特
  定の巻は『一般理論』よりもずっとよいと思います。だから私の書評は、
  (『貨幣論』の)中心的主張を批判していますが、全体としてはそれをむし
  ろ賞賛するものだったのです」。
2.第3編「基本方程式」第10章「貨幣の価値に関する基本方程式」
3.第1編「序論」第3章「有効需要の原理」
4.第6編「一般理論の示唆する若干の覚書」第22章「景気循環に関する覚書」
5.John Maynard Keynes,A treatise on probability,1921(『確率論』佐藤
  隆三訳、ケインズ全集、中山伊知郎他編 第8巻、東洋経済新報社、2010)
6.George Edward Moore, Principia Ethica, 1903(『倫理学原理』深谷昭
  三訳、三和書房、1977)
7.「若き日の信条」(1949)。これは1938年にケンブリッジ大学のクラブで口
  頭で読み上げられた文書であり、ケインズの死後に出版された。
8.『確率論』の哲学的意義については、伊藤邦武『ケインズの哲学』岩波書店、
  1999 が鮮やかな説明を行っている。
9.ケインズは「推論の重みweight」という言い方もしている。「重み」は確
  率とは独立であり、推論にかかわる証拠の量に関係するものである。
10.John Maynard Keynes,Essays in biography,1933(『人物評伝』大野忠
  男訳、ケインズ全集;第10巻、東洋経済新報社、1980)
11.John Maynard Keynes,The General Theory and After; Defence and
  Development,Collected Works of Keynes ,Volume XIV,1978
12.John Coates,The claims of common sense: Moore, Wittgenstein, Keynes
   and the social sciences,Cambridge University Press,1996
13.第2編「定義と基礎概念」第4章「単位の選定」

┌───────────────────────────────┐
|松原隆一郎(まつばら りゅういちろう)              
|1956年生まれ。神戸市出身。東京大学工学部都市工学科卒業。東京大学大
|学院経済学研究科博士課程修了。現在、東京大学大学院総合文化研究科教
|授。専攻は社会経済学・相関社会科学。社会科学と俗世に関する該博な知識
|を駆使して論壇でも活躍、アカデミズムとの相互乗り入れを図る。  
|著書に『失われた景観』(PHP新書)、『消費資本主義のゆくえ』『経済学の名著
|30』(以上、ちくま新書)、『分断される経済』『長期不況論』(以上、NHKブック
|ス)、『武道を生きる』(NTT出版)、共著に『<新しい市場社会>の構想』(新世社)
|などがある。                                  
└───────────────────────────────┘


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆ 
◆ 3)『本気で考える池田屋事件』第41回             ◆ 
◆                中村武生                    ◆ 
◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  

 西川耕蔵とともに6月6日に入獄したと村井政礼(まさのり)が、明記するの
は、「肥後人松田重助」である(前掲『縲史』20ページ)。
 松田は、宮部鼎蔵の弟子で、肥後を代表する攘夷志士の一人として知られる。
が、その情報の多くは後世の伝記類によるもので、信用できる同時代史料(い
わゆる一次史料)にその姿を見出しにくい。
 嘉永7年(1854)3月以前、吉田松陰と江戸で交流があり、「下田踏海」を
決意することになる熊本旅行でも対面していることがわかる(『吉田松陰全集』
8巻414ページ、10巻411ページなど、岩波書店)。
 が、その後は、翌安政2年(1855)ごろ、肥後を亡命したらしいこと、「羽田
右馬介」(波多野右馬介)や湯浅権之助などと名乗って河内国富田林に住んでい
たこと(「壬戌春一敏入薩日記」『王政復古義挙録/懐旧記事』、148ページ、新
人物往来社)、安政4年(1857)10月ごろ、梅田雲浜(うんぴん)らと交流が
あったこと(同年10月4日付、下辻又七宛梅田雲浜書翰、『梅田雲浜遺稿並伝』
87ページ)、翌安政5年(1858)12月27日にも大坂付近にいることがわかるぐ
らいで(実弟山田十郎宛松田重助書翰、『肥後藩国事史料』1巻310〜315ペー
ジ)、文久2年(1862)、寺田屋事件で挫折することになる京都挙兵計画直前の
3月、宮部鼎蔵ら肥後グループの薩摩入国活動に突如その名を見出すまで、ま
ったくその消息は絶たれる(前掲『肥後藩国事史料』1巻877ページ、「壬戌春
一敏入薩日記」『王政復古義挙録/懐旧記事』147〜154ページ)。
 その後は、入薩活動で一緒であった小河(おごう)弥右衛門(一敏)の回想
によれば、中国地方から船で大坂に出、「色々周旋し丹後に細川家の由緒あるも
のゝありけるを語らひ一挙あらば之に応ぜんと種々心を砕」いたという(『王政
復古義挙録』33ページ)。
 「丹後に細川家の由緒あるもの」とは、丹後国船井郡上木住村(現京都府南丹
市日吉町)の郷士湯浅五郎兵衛(征一郎)のことと思われる。湯浅五郎兵衛は
古高俊太郎が養子に入った桝屋(湯浅)喜右衛門の本家筋にあたり(既述)、肥
後細川家と先祖が姻戚関係をもっていたため、同家の家紋「九曜」の使用を認
められていた(『湯浅五郎兵衛と幕末維新』5ページ、日吉町郷土資料館、2005
年)。
 松田は湯浅と懇意にし、その指導的立場にあった。年不明3月5日付、藤本
鉄石宛の書翰を湯浅に持参させた上で、「未タ未熟人」であるが、「性質義勇之
士」であるので、「追々用立之見込」みもあるので、「無御隔意御教示被成下」
と依頼している(前掲『湯浅五郎兵衛と幕末維新』8〜9ページ)。
 同じく年不明4月8日付、山城国乙訓郡西岡(現京都市西京区)の郷士高岡
義介(山口薫次郎)宛平野国臣書翰によれば、松田(「湯浅権之介」)は、「五郎
兵衛二男」と名乗り湯浅家の「番頭」として行動している(『平野国臣伝記及遺
稿』246ページ)。小河弥右衛門(一敏)の回想は、あるていど事実を伝えてい
ると思われる。ただしいずれの書翰も年次が明らかではなく、正しく入薩以後
のことかはわからない。
 ただ文久2年(1862)の京都挙兵には参加しようとしたふしはある。年不明
4月19日付、久坂玄瑞宛松田重助書翰によれば、前日の夕方、松田は久坂が大
坂にいることを知り、ただちにその旅館を訪ねたが、すでに長州屋敷(大坂か)
に移ったあとだった、そこで「今日の事、火急に御示談申上度事許多」あるの
で、ぜひ御目にかかりたいとある。それ以前、久坂と面識がないようなので、
おそらく文久2年のものではなかろうか(遠山操『志士書簡』259〜260ページ、
1914年)。
 4日後の4月23日、寺田屋事件がおき、挙兵計画は挫折する。関係者の小河
一敏(弥右衛門)は、のちに「其外松田重助を始め、事挙らば之に応ぜんと、
内々用意ありて陽に知れざりし人は数多ありけるとぞ」と回想しており(『王政
復古義挙録』55ページ)、挙兵前夜、参加目的で松田が在坂していたことを想
像させる。
 つぎに松田が年次の確かな史料に登場するのは、翌文久3年(1863)9月の
ことである。八月十八日政変のあと、三条実美ら七卿が周防三田尻に下る。そ
の側近土方楠左衛門(久元)の日記の同年9月4日条に、彼の滞在地である招
賢閣で、「九ツ時比ヨリ真木(和泉)ト共ニ肥後藩松田重助ニ面会」するとある
(『回天実記』上、8ページ)。
 しかしいつ松田が周防三田尻に入ったかは不明である。伝記類のなかには、
七卿落の際、途中で合流して随行したように記すものがあるが(たとえば『修
補殉難録稿』前篇405ページ、『肥後先哲偉蹟』後篇770ページ下段)、それを
裏付けるものは皆無である。先の土方楠左衛門の日記や、松田の師宮部鼎蔵の
同時期の日記(「南海日録」)などにも記載はない。
 三田尻にもわずか十日あまり滞在しただけで立ち去る。河上彦斎(げんさい)
とともに京都へ向かったらしいが(『回天実記』上、11ページ、『東久世通禧(み
ちとみ)日記』別巻、24ページ)、その後、河上はともかく松田は三田尻に戻
った形跡がない。
 文久4年(1864)2月13日、宮部らとともに「招賢閣会議所詰」になり、三
条ら五卿を守ったと記すものがあるが(高野直之・高野敦之「宮部鼎蔵年譜」
『日本談義』151号、64ページ、1963年)、東久世通禧の日記や土方楠左衛門
の日記には記されない。
 元治元年(1864)4月26日に始まる、宮部鼎蔵の最後の旅行記(「因州日記」)
によれば、同行したのは「萱野嘉右衛門・赤星彦太郎・内田弥三郎・今枝恭蔵」
のみで、松田は記録されない。5月25日に大坂へ到着したところで記述は終わ
るが、その途中で松田と合流したと記すこともない(『宮部鼎蔵歌文拾遺』229
〜236ページ)。
 一般に宮部と松田はともに京都に入ったと記されるが (たとえば冨成博『新
選組・池田屋事件顛末記』198ページ、2001年、新人物往来社)、まったく信用
できる史料によって裏付けられない。池田屋にいたかどうかも分からない。
 宮部とともに松田を池田屋事件戦死者として名高くしているのは、明治26
年(1893)4月、実弟山田信道(当時京都府知事)が建立した「贈正四位宮部
増実之墓/贈従四位松田範義之墓」の連名墓碑の存在が大きいと思われる。当
碑が池田屋事件戦死者菩提寺として知られる三縁寺の中心的墓なので(入り口
の真正面に存在する)、つよくそれをイメージさせているのであろう。
 ただ誤解のないように。池田屋事件の夜、京都で逮捕されたことは事実とい
える。残念ながら逮捕地は記録されていないが。
 6月6日中に作成された、前日5日夜の逮捕者姓名一覧にある「松村重之助」、
ないしは「村松重助」が松田のこととされる(『官武通紀』255ページ、『改訂
肥後藩国事史料』838ページ)。これに加筆されたと思われる既出の「元治元子
年六月中入牢人 但し三条池田屋騒動以後」には「松村屋重助」とある(「新選
組池田屋夜襲一件」『同友方会誌』43号、35ページ)。
 6月7日以前、肥後細川家京都屋敷は、戦死者のなかに「弊藩脱人共」はい
ないか尋ねている。すると「一人尊藩人共ニ而ハ無之哉与(と)見込申候と返
答」があった。それが「松村重助ト相見へ申候」ということだった(『改訂肥後
藩国事史料』827ページ)。ただし情報が錯綜していたようで、別に得た情報で
は「松村重助」と「松田重助」は同一人を誤記したものではなく、それぞれ存
在するように記録されている。
 たとえば下って6月16日、細川家京都屋敷(留守居役)の中山左次右衛門が、
「会津本陣」で「生捕之内御国脱走之ものハ居不申候哉」と尋ねたところ、留
守居役の鈴木多門から返事があった。そのなかに「松村十助(池田屋ニて手負)、
松田重助(遁逃之由)」とある(『改訂肥後藩国事史料』833ページ)。「松村十
助」は負傷して逮捕されたが、「松田重助」は逃げ去ったらしいというのである。
不思議なことである。
 というのは、前年(文久3年) 11月20日、熊本細川家は同家の亡命者八人
を名指しのうえ逮捕を命じ、もし抵抗した場合は殺害も可とした。そのなかに
小坂小次郎・高木元右衛門・宮部鼎蔵・河上彦斎・加屋四郎・萱野加右衛門・
西島亀太郎とならんで松田重助の名があるのである(『肥後藩国事史料』4巻
449ページ)。松田は指名手配されているのである。にもかかわらずその存在を
認識できていない。細川家京都屋敷の諜報レベルの問題かもしれないが、ある
いは他の誰よりも松田の亡命の時期が早かったため、その存在が忘却されてし
まっていたとも考えられる(松田は安政2年(1855)ごろ。たとえば宮部鼎蔵
は文久3年(1863)で、8年ほども異なる)。
 松田は逮捕のとき負傷(「疵受」)した。尋問しても返事が聞きとれないほど
であった(「答方一向相分り不申事」前掲『官武通紀』255ページ)。重傷であ
ったことを思わせる。その最期がいかなるものだったか、村井政礼の獄中手記
(「縲史」)は何もふれない。『改訂肥後藩国事史料』と『官武通紀』におさめら
れた前掲の逮捕者姓名一覧にも死亡日の記載はないが、追加分を補足した『同
方会誌』43号所収分にはある。すなわち「六月八日病死、仮埋」である(同誌
34ページ)。「病死」とあるのが気になるが、明らかに拷問により殺害された池
田屋惣兵衛も病死扱いされたふしがある。あるいは獄中で亡くなると病死扱い
するのが一般的であったのかも知れない。そうすると受け入れてよいかもしれ
ない。
 肥後人照幡寛胤(轟武兵衛)が、明治3年(1870)7月、三縁寺に建立した宮
部鼎蔵の墓碑銘に、「一説」と断った上で、松田が重傷を負って捕らえられ、翌
日死去、一旦獄中に埋められたのち、遺骨を三縁寺に葬ったと記すのは注意を
ひく(「松田重助被重創、縛就獄、明日死、屍投其之処、今攸遺骨埋此」)。死亡
日の差異はあるが、「仮埋」は一致する。「獄」は六角牢屋敷と思われるが、関
連施設の西土手刑場(現京都市中京区西大路通丸太町下ル付近一帯)に埋葬さ
れた可能性もある。多くの殉難志士が同刑場に埋葬されたことが知られるから
である(大和で戦死した天誅組吉村虎太郎らの首級や、六角牢屋敷で殺害され
た平野国臣や古高俊太郎らの遺体)。
 明治26年(1893)4月建立の三縁寺墓碑銘(既述)に、松田重助の実弟山田
信道は、松田のみ遺骸が真葛原(現東山区・円山公園付近)に「棄」てられた
が、のち三縁寺に改葬したと記す(「余兄範義遺骸、独棄真葛原、後人改葬」)。
が、当時肥後の獄中にあって京都にいなかった山田が、明治初期までに得た照
幡寛胤の情報以上に、実兄の正確な「仮埋」の地を知りえたとは思いにくい。
京都府知事として、職権によって関係者から聞き取りをした可能性も考えられ
なくないが、実証はできない。
 松田の最期について、「重傷ヲ受ケ劇痛ニ堪ヘス、号泣シテ哀ヲ乞フ。永倉新
八呵シテ曰ク、何者ノ怯夫ソ、婦人ニモ如カスシテ斯(か)カル大怪事ヲ企ツ」
と記したものがあり(永岡清治『旧夢会津白虎隊』65ページ、私家版、1926
年)、これを「言い伝え」として批判をくわえず紹介される場合がある(たとえ
ば野口武彦『新選組の遠景』90ページ、集英社、2004年)。
 が、これは会津人である永岡が、「守護職小史・七年史・京都守護職始末・徳
川慶喜公伝等」といった後世の編纂書によって、1926年(大正15)に刊行した
ものにすぎない(『旧夢会津白虎隊』例言)。実際、池田屋事件の項に限れば、
事実に相違する部分が多数あり、実体験はもちろん、関係者から直接聞いたも
のとも思いにくい。とうてい使用に足る情報ではない。当事者である永倉新八
の手記に、一切そのような記載がないことを付言しておく。(つづく)

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│中村武生:歴史地理史学者。1967年生まれ、大阪府出身。佛教大学大学院 
│文学研究科博士課程前期(日本史学)修了。京都女子大学、天理大学の非
│常勤講師や、京都新聞文化センター、京都おこしやす大学、NHK文化セ 
│ンター、よみうり文化センター、中日文化センターなどの講師をつとめ  
│る。NPO法人京都歴史地理同考会理事長。著書に『御土居堀ものがた  
│り』、『中村武生の京都検定日めくりドリル500問』(以上、京都新聞出 
│版センター)、『京都の江戸時代をあるく――秀吉の城から龍馬の寺田屋 
│伝説まで』(文理閣)。                             
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